車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』を読みました

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂

 車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を読みました。東京での会社勤めを捨てて無一物になり、アパートの一室でひたすら病気で死んだ毛物のモツに串を刺す生活を送る男の話です。そんな男の、私小説です。
 私はこの作品の映画版をDVDで借りて観たことがあります。

 これを読み返したところで、なにかどう自分の胸に刺さったのかわかりやしません。胸に刺さったのかもわかりはしません。この程度の言葉しか残せない自分には、いつも失望させられます。結局、ここで私が小説『赤目四十八瀧心中未遂』の感想をいくら書き連ねようとも、ひどく軽薄で中身の無いものにしかならないでしょう。どこかから一節引用しようとも、どうにも虚しいものにしかならないような気がするのです。いっそのこと、全文を写経のように打ってみようかという気にもなりますが、まあ、そんなことはやらんのですけれども。
 そんなわけで、私の手には余る、何事に対してもそうですが、これにはどうしたものかわかりはしない。ただただ、息を殺して頁を手繰るしかなかったというわけです。そして、いつもの口調で書いたら、本当に下手くそな文体模写のようになりかねないので、こんなふうに「ですます」しているわけなのですが。
 ま、そんなことはどうでもよろしい。これだけ人間の心の底まで抉りながら、同時にそこにある「物」への描写が徹底している小説というものは、ほかに……なにかあるのか思いつきません。著者がべつのどこかで、折口信夫が「物」を「たましい」と読ませたとか、あるいはその逆で「魂」が「もの」だったとか書いていたように思いますが……憑き物、物がついている。物のはずみで人間どうかなってしまう。「私」という物がなんなのか、深く暗いところへと運ばれていくようでもあります。そして、世界は「私」の知らないところで確実に脈動してる。悪夢のリアルがある。そして、私も、きっとあなたもその世界のどこかでそれを見ながら気付かず、見ながら気付かぬふりをして生きているかもしれない。
 少なくとも、私は私の成しうる限り、人間の業、私の業には敏感でありたいし、そう思う自分の薄っぺらい思いあがりを軽蔑したいと思います。そう、思うのですが。