短髮の俺、むき出しの顔

 ……だが、いずれにせよ、ルイ十四世の軍隊において理念として「非個性的な記号同然の」兵士が出現したことは特筆されるべきだろう。
 死は人間が身体をもった存在であることを教えるための最大のものであり、軍隊はその死にもっとも近いところにある組織だが、しかし、ここで成立したのは逆に、抽象的な身体とでもいうべきものなのだ。数字や記号に還元されうる抽象的な身体、自由に操作されうる抽象的な身体。
『身体の零度』三浦雅士

 昨日、髪を切った。髪を切りすぎた。この短さは……下手すれば幼稚園以来。ぎりぎり立たない程度。染まっていた部分も全部はぎとられた黒髮。思いのほか、俺は衝撃をうけた、わらい。
 なんというのだろう。誰かと話していても、コンビニで買い物していても、こうやってなにかを打っていても、俺はどうも俺でないような気がしてしまう。鏡を見るたびに、なんだこれはと思ってしまう。萎縮してしまう。よくわからない。自分には自信がない方だと思っていたが、それがマシマシの具合。どうしようもなく、弱まったような気になっている。むき出しの顔、はぎとられた装飾。
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 ああ、軍隊に入り、髪を切られるというのは、こういうことなのだろうな、と思う。『フルメタルジャケット』でも、象徴的なシーンのひとつだ。クソからピーナツ食え。もちろん、みずからの選択によって、短髪を選んでいる人の話ではない。体育会系のそれは、ちょっと近いかもしれない。そう言い出せば、校則の髪形に関する規定はそのものだろう。俺の場合は、偶然がもたらしたものだ。偶然? いや、俺の能動的な失敗だ。あのとき、「やっぱり三センチ!」って言っておけば……。
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 というわけで、やはり身体の加工というものについて、俺は考えてしまう。たとえば、「髪形なんてどうだっていいんだよ」って思ってる人だって、あまり五厘刈りにしたりはしないだろう。また、そう思って生きている人だって、五厘刈りになってしまったら、髪が自分にもたらしていたもの、髪の自分というものを自覚するに違いないんじゃないかと思う。逆に、短髪でずっと来た人間が、なんらかの拘束を受けてぼさぼさの長髪になってしまったら、それも衝撃だろう。
 ようするに、何が言いたいかというと、俺は髪の長さを失敗したし、想像以上にダメージを受けている。俺は俺の髪にこだわりなんかないつもりで、適当な安い床屋で「三センチ」とか言って切ってきたけれども、知らないところでこだわりはある。人間、なにかと、精神や魂、心の大切さを言うけれども、われわれ、この血肉糞袋から自由でないし、心身相互、身体あってのわれわれだ、ということだ。当たり前のことだ、たぶん。
 だから、俺は、すぐにメガメガブリーチで髪の色を変えようと思う。すぐに。
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身体の零度 (講談社選書メチエ)

身体の零度 (講談社選書メチエ)