アニメ『青い花』第10話「幸福の王子」/俺の読み違い/相手が穿いている靴のボタンにさえも恋をする

俺の読み違い

 江ノ島の岩屋洞窟、ラストシーンである。私は原作(画像は『青い花』第三巻より)、ラストの大コマ、というか一ページをつかった吹き出し二つ、これ、ひとつはふみちゃんのものだと思っていた。杉本先輩に対して、言い過ぎた、というようなこと被せたのかと思った。吹き出しの位置もある。が、やはり真っ暗でわからない。そこで、アニメはどうするのか、注目していた。
 結果、アニメが提示した答え、それは、「ごめんなさい」も杉本先輩というものだった。即座に、私は私の読解力の無さに唖然とした。そうだ、「ごめんなさい」は杉本先輩の言葉でいいんだ、と。
 杉本先輩の回想シーン。見た目だけでも、ざっくりした姉に近づきたくて髪を切った。そして、王子を演じるようになった。ただ、闇の中では、岩屋の闇の中では、その象徴である髪は見えない。そこで、彼女は、髪を切る前の、もとの自分であると思う自分に逆戻りしていた。そこで、めずらしく強気なふみちゃん(某巨大掲示板では「淫獣メガネ」とか呼ばれているのだけれど)に、まっすぐな言葉を突きつけられて、そこで、「ごめんなさい」が出たのだ。そして、なにかにケリをつけたのだ……。
 と、私は考えた。さあ、それがどうだかわからない。わからないが、ここのところは、アニメ版にのることにする、そう思ったのだ。


相手が穿いている靴のボタンにさえも恋をする

 目下のところ(はじめ「モッカのところ」と変換した俺のATOKは日本プロ野球におかされているから)、原作、アニメ通じて一番好きなキャラは井汲京子さんである。ただ、はじめはそうでなかった。アニメで、彼女が湘南モノレール沿線住民、ひょっとしたら利用者ではないか、ということが明らかになってからである。ちなみに、原作は四巻までモノレールの登場はない。
 となると、私にとって井汲さんというのはモノレールであるのか? ということになる。井汲さん=湘南モノレール。いや、意味がわからん。しかし、モノレールの登場なくして井汲さんへの関心、感情移入、ひいき目というのは起こらなかった、それは言える。もちろん、モノレールとの関係なしに、井汲さんがフェイバリット・キャラクタになった可能性もある。それはわからない。ただ、この現実の自分に関しては、モノレールが不可欠であった。
 とはいえ、こんなことは、べつに特別なことではないのではないか、と思わなくもない。モノレールが、というわけではなく、なんというのか、その人の属性や何かがきっかけになる、ということだ。

 「相手の人格や思想に惚れるというのはウソで、誰しも先方の眼とか耳とか鼻とか、口許のちょっとした癖に惹き付けられているのである。カイゼル・ウィルヘルム二世が指先のきれいな女ばかり追い廻していたなどはましな方で、甚しい奴は相手が穿いている靴のボタンにさえも恋をする
稲垣足穂「臀見鬼人」

 太字強調は引用者による。この箇所に関しては元ネタがあり、またこれを書き出しとする作品は別にあり、失われてしまっているというが、そのあたりは『ヴァニラとマニラ』でも買って読んでいただきたい。まあ、ともかく、「靴のボタンにさえも恋をする」というところがいい。畢竟ずるに、恋などというものは、このようなものじゃないかと。
 いや、このようなことがきっかけになるのではないか、という方が正しいか。もちろん、人によっては靴のボタンにのみずっと恋しつづけることもあるだろうし、場合によってはそのボタンが失われても愛情が続くかもしれない。人格や思想を愛せるかもしれない。ただ、きっかけ、一瞬のスパークとしては、靴のボタンだってあるんだろう、と。そしてもちろん、人間の身体というのも、目に見えるかぎりにおいて、一種の付属物、物にすぎないのだから、「おっぱいが大きい」とか、「もっと歌って僧帽筋」といったところから恋が始まることもあるだろう。「JK+片足+靴下」で検索してこの日記に辿り着いた誰かも、初恋に片足靴下が関係しており、またそこからそういったフェティシズムに目覚めたのかもしれない。
 フェティシズム……。
wikipedia:フェティシズム

胸の大きな女性が好きだから自分はおっぱいフェチだなどと自称する人は多いが、これらは上記の基準に照らし合わせればフェティシズムには分類されない。彼らの性欲の対象は胸の大きな女性との交際・性行為である。胸が大きい女性との性行為しかままならない、というほどの性的対象の歪曲が持続して初めて性的フェティシズムと言える。

 厳密な意味でのフェティシズムというと、なかなか限られてくるようだ。ただ、精神医学上の問題になるほどの人は、その割合が濃いだけであって、誰しもそういう部分があり、カフェオレのようにほかの感情と混ざり合ってわからなくなっているというようなものではないだろうか。たとえば、転校生に恋をするというようなのは、ありふれた話ではないのか。その彼ないし彼女の、少し違った制服であるとか、体操服であるとか、なにかの持ち物、あるいは言葉づかい、所作、そんなものに惚れる、というところがあるのではないのか。そんな状況に惚れるところを、もちろん極大化すればパラフィリアなどといって精神障害に分類されてしまうが、そうでないあたりでは、あまりめずらしくないものではないかと思うのだ。
 というわけで、何が言いたいかといえば、湘南モノレールと井汲さんは切り離しがたく、ともにすばらしいと思う私は、そんなにおかしくないのではないか、いや、ちょっと髪の長い井汲さんとか最強だろ、などと言いたいわけである。おしまい。