ぬるい漫画好きアニメ好きが読む『青い花公式読本』

※アニメ「冬の花火」回は未見。今晩、正座して見る。

 ……元地元民的にいろいろ感想を書いたけれども、その他の部分についていくつか。

岩屋のシーン、作者の意図と解釈

オノ (略)すごいと思ったところがあったんですけど、えっと、杉本先輩が「ごめん、ごめんなさい」って謝るシーン(第3巻P.124)

志村 ああ、そこの場面って、アニメのスタッフの方から「どちらも杉本先輩のセリフでいいんですか?」って聞かれたところで。私の中では、最初に「ごめん」って言って、それから丁寧に「ごめんなさい……」って心から謝る、みたいな意識で描いていたんですけど、わかりにくかったのか……と思ってて。

 このシーン、俺は漫画版で逆の読みをし、アニメでハッとしたところだ。

結果、アニメが提示した答え、それは、「ごめんなさい」も杉本先輩というものだった。即座に、私は私の読解力の無さに唖然とした。そうだ、「ごめんなさい」は杉本先輩の言葉でいいんだ、と。

アニメ『青い花』第10話「幸福の王子」/俺の読み違い/相手が穿いている靴のボタンにさえも恋をする - 関内関外日記(跡地)

 ここのところ、たぶんスタッフさんとて「念のため」だったんだろうと思うけれども、まあ迷う余地はあったのかな、とか。しかしまあ、なんだ、こうして作者の意図をはっきり知れた、というのはよかった。
 まあ、もちろん、この二つ目の「ごめんなさい」はふみちゃんのものだって、そう解釈する人はそれでいいんだ。それはもう、そういうものなんだ。作者の手を離れた作品というものは……。
 だけれども、しかし、たとえば、俺がこのように、他の解釈を知って(この場合はアニメ)、さらに作者の意図を知って、それが別の俺の判断、解釈、感想を阻害したり否定するものでもない。それを知った上で、たとえば、今回俺は、俺の最初の解釈より、別の解釈の方が、より‘俺の’『青い花』をよくする、そう考えたということだ。実際、俺にとって、両方とも杉本先輩の言葉であると知って、この回、このコマが、よりカチッとした強度をもって、立ち現れたような、そんな気になっている。
 そういう意味で、村上春樹みたいに「作家が最後に語ることは自作についてだ」(直訳風)っていうのよりも、別に作者が自作についてばんばん語ってくれるのは、どちらかというとありがたいようにも思う。そりゃまあ、残念なケースもあるだろうけれども、さ。
 ……とかつらつら脱線したのは、こちらの記事に紹介されていた、ポール・オースターの話を最近読んだので

愛されるあーちゃん

元気印のあーちゃんもついに恋の舞台に立つのかしら?

 編集後記より引用。この本、いろいろの対談などあるけれども、なんというか、あーちゃんは愛されているなあというところを感じた。愛しているというか、心配しているというか。もちろん、俺も俺も。

ところで、あのメンバーで一番色恋から遠いというか、そこにいたっていないのは奥平さんなわけで、『青い花』を奥平さん中心に見れば、恋の目覚めというような内容ともいえる。やがて奥平さんが、色恋の前線に立つとなると、彼女の天真爛漫、初心なところが、また誰かを傷つけ、それで奥平さんが傷ついたりするのだろう。それは切ないが、しかしそういう痛みもあるのだろう。大黒屋、おい、そいつはお前の手下にするべきじゃない。そいつは、奉行だ。体制側の人間だぞ!

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20090827/p1

 などと書いたとおりだ(大黒屋は関係ない)。一方で、ふみちゃんというのは、なかなか一筋縄ではいかないタイプ。作者も、アニメスタッフも手を焼いているというとなんだけれども、「一歩間違うと地獄だぞ」みたいな、いや、地獄はひどいにしても、なかなか、ねというあたり。
 でも、やっぱり『青い花』が「百合」の範疇を超えているのではないか、というのは、杉本先輩の先生ラブなんかもあるにしても、やっぱりこの、実に血と肉を感じさせるふみちゃんの存在感みてえのがキーだろうって、俺は思うわ。

"嫉妬するとこめかみが痛くなる、とか「キャー!」ってなるんだけどな。"<俺も俺も。あと、俺も星野リリィ好きだった/←客観的に見て、三十のおっさんとしてどうだこれは。まあいいか。

はてなブックマーク - goldheadのブックマーク / 2009年8月20日

 この対談も『読本』に収録されております。

アニメ化するということ

 ええと、ちょっと打つ時間がないので、ケータイ画像そのままに引用させていただきます(文字を写すというのは、これがキーボードを叩くことであれ、なんとなく礼儀というか、敬意のような気がしている俺。もちろん、コピペできればコピペするけれども)。
 そんで、このあたりのこと。

そんで、やっぱりなんかこの、ひとつの作品が別のメディアに移るところのおもしろさみたいなのがあるわ。その、「原作よりよかった」とか「アニメの方がおもしろい」とか、そういう個々の作品の優劣っつーか、そういうもんでなしに、移り変わらせること自体のおもしろさ。小説の映画化でも、ゲームのアニメ化とか、まあメディア間によっていろいろ差はあれども、まあ、その出来不出来でなしに、なんつーのか、元のものと別の表現とか、付け加えたり、端折ったりというところに、移しかえた人間の意図が見えるじゃん。

原作みながらアニメみる〜『青い花』第二話〜 - 関内関外日記(跡地)

 ……って、「意図が見える」ってのは言いすぎもいいところで、正確には「つけ加えたり」、「端折ったり」したところが見えて、そこに意図が働いているんだろうな、ということが見える、なわけだけれども、まあそういうところ。この読本は、監督やシリーズ構成の方と原作者の鼎談などもあって、そのあたりはおもしろかったわ。
 そんで、この記事で「ありがたいおぎない」と思ったようなことについて、監督さんが「よくなって当たり前でしょう」って感じで、そのあたりの矜持っつーか、いいね、しびれるね。

 そんでまあ、俺が何をいいたいかというと、別に原作がわかりにくいとかいうんじゃなくてさ、まあ、俺に理解できるちがい、みたいなところの話であって、まあなんでもいいんだけれども。つーか、「アニメだと登場人物の内面の声、モノローグがバッサリなくなってるな」とか、そのあたりのほうが、なにか考えられるようなところかもしらんけど。
 でもなんだ、なんか台詞回しの、微妙な違いなんだけれども、それは原作の方が好きだな。なんつーの、志村貴子節とまでいえるかどうかわからんけれども、すごい日常会話風かもしれないけれども、妙になんつーのか、こなれていないというか、なんというか。そのあたり、アニメの方はわかりやすくなっていて、それはまた、言葉を文字(+絵)で伝える漫画紙面と、声で伝えるアニメ脚本の差、みたいなところもあるだろうし。

原作みながらアニメみる〜『青い花』第二話〜 - 関内関外日記(跡地)

 あと、このあたりのこととか、こんな風に思ってる人間にとって、『読本』はよかったわーって言うしかないし、みてえな、な。
 そんで、うまく言えないけれども、そりゃ漫画→アニメ間で、一種のロスト・イン・トランスレーションは起こるんだけれども、そこんところは、ただのロストじゃなくて、逆に、えーと、ゲイン・イン・トランスレーションみてえなもんもあるだろうし、この『青い花』みてえに、原作もアニメもおもしろけりゃ、それをどっちも享受できるのは幸いだね、とか。
 えーと、そんじゃー、そんなところでまとまりもなく、バハハーイ。