昭和二十年の盛夏。魚雷を脇に抱えたドラム岳が、太平洋に漂流していた。この乗組員、工兵特別甲種幹部候補生のあいつは、まだ終戦を知らなかった。あいつが、ここまで来るには可笑しくも悲しい青春があった。
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遊就館でのこと
『肉弾』とは違う話からはじめる。2007年に靖国神社に初詣に行ったときの話である。回天とか生で見るとより悲しい。回天や桜花、それに、潛水服で海の底潜って竿の先の爆弾で敵の船底を攻撃する方法とかは悲しい。悲しいと同時に、誤解を恐れずに言えば、どこかばかばかしい。こんなので死ななければいけなかったことを考えると、身震いする。この館を戦争讃美だとかいう声もあろうが、これを前に讃美もないだろう。
俺はこう書いた。しかし、書かなかったこともある。同行していた連れの女性のことである。彼女は、「潛水服で海の底潜って竿の先の爆弾で敵の船底を攻撃する方法」、すなわち「wikipedia:伏竜」の展示を見て、ぽろぽろ涙を流した。「なんだって、こんな……」。特攻隊員たちの遺言、回天や桜花では流れなかった涙が、伏竜にいたって流れてきたのだ。俺は、そのときのことをよく覚えている。伏竜は……、誤解をおそれずにいえば、滑稽ですらある。それゆえに、とても残酷で、われわれを揺すぶる。俺は、そう思う。
『肉弾』
俺は、『肉弾』を見て、あのときの伏竜を思い出さずにはいられなかった。『肉弾』は、全編を通して、そんな滑稽さ、乾いた笑い(ヴォネガットみたいに、骸骨が笑うみたいに!)がある。繰り返される「日本よい国、清い国 世界に一つの神の国」の皮肉……。でも、なんというか、やっぱり怒りなんだと思う。監督の、怒り。「あいつ」、たくさんいた「あいつ」、童貞で、おっちょこちょいで、因数分解ができて、恋もしたくて……、そんな「あいつ」らの無念を、運命を刻もうという、なんというか、そういう思いを感じた。
と、同時に、その当時の現在にも、なにか突きつけたかったんだろう、そうなんだろう。特攻を目の前にして、一匹の魚、酒に落ちた蝿をいつくしむのと対象に、戦争が終わってみればという、あの対比。そして、海水浴場で戯れ、ジェットスキーに興じるリアルラブプラスたちと、あの対比。そしてたぶん、まだドラム缶はさまよってる。湘南の海で見たことはないけれど。
追記:しかしこの映画できたの1968年、一方で全共闘まっさかり。さあ、なんだか俺にはようわからん。
人と神さま
特攻隊に選ばれた人間は、もう軍神、神さまになる。神さま扱いだ。「あいつ」が傘を差して歩いていると、志願兵上がりであろう古参の下士官に絡まれる。「兵隊が傘を差して戦争に勝てるか」と。急造士官いじめ。が、「あいつ」が特攻の運命にあると知ると、急にバツが悪くなる。「今日は人間でいられる最後の日だから、傘くらいさしていたかったんですよ、おかしいですか?」。
繰り返される「神の国」。「人間の国の方がいいなあ」と「あいつ」。その台詞がいい。子供を殴りつける教師。それをとめる「あいつ」。すごい、と言われて、「普通だ」と答える「あいつ」。みんな狂った中で、普通であることができる神さま。その歪み。そして、結局は神さまも、何日も蛸壷の中で米軍の戦車がくるのを待って、ミカン箱みたいな爆弾を炸裂させに走っていく。あるいは、「どんがめ」としか言いようのない兵器に乗せられ、海に捨てられる。
おわりに……ではなく
と、なんとまとめていいかわからない。まとめられるものなんかじゃないんだ、たぶん。『夕凪の街桜の国』みたいに、「このお話はまだ終わりません」なんだ。
とにかく、なんかこう、巨大なもんが、しかしまあ、もう、ゴロゴロ転がっていて、止められなくなってしまって、そこに現れる、「やましき沈黙」……。もうそうなってからでは遅いし、くそにはくそだって、言いつづけるしかねえんだろうし。まったく、そうなんだよ、きっとね。
映画として
というか、映画の話。寺田農が主役。最初まったくわからず。両腕を失った笠智衆の存在。なんというのだろうか、すごいカット割り(?)。天本英世、あの回想シーン、『幽閉者』で似たようなことしていたな。実験的、というには、もっとなんつーか、すげえ、いや、正直、目が離せない、面白い。俺はあまり映画とか観てこなかった、岡本喜八の映画を観るのもはじめてかわからん。で、驚いた。ようわからんが、テレビが八月に戦争映画流すんなら、このあたりやってもいいんじゃねえかとか思ったでした、と。
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