一分のファンの一分の魂

 こちらや、一連のブルーコンコルドをめぐるいろいろを読んで考えたことを書きます。

俺と競馬関係者の非対称

 まず、自分の立ち位置をはっきりさせておくと、あるひとりの競馬ファンとしか言いようがない。馬券を買う類の、そして、競馬の話題を追うことも好きな、競馬ファン。誰の意見の代弁もしているつもりはない、何万分の一かの、そして、一分の一の競馬ファンにすぎない。もしかしたら、気分が大きくなって、多くのファンの代弁者のような物言いをしたことがあるかもしれない。しかし、自分は、できるだけ自分を、ただひとりのファンであり、ひとりのファンの言葉を使おうと心掛けている。もちろん、競馬の話題を追う以上、胴元、騎手、厩舎、馬主、生産者などの声も耳に入る。自分の耳に届く範囲では、できるだけ知ろうと思っている。そして、自分の好きな競馬関係者を基本的にリスペクトしていたいと思う。
 が、だからといって、一ファンの自分が、それらの立場を内面化しすぎること、あるいはそれらを代弁するようなことは、結果競馬にとってあまり良くないことなのではないかと考える。それゆえに、俺は俺の競馬を語るとき、俺の一ファンとしての立場をより意識して、できるだけわがままで、情緒的で、感情的な物言いをするように心掛けている。
 なぜならば、一競馬ファンと競馬を生業にしている人との間には、絶望的な違いがあるからだ。言うなれば、競馬は俺にとって娯楽であって、死ぬまでの暇つぶしの一つにすぎない。はっきり言って、俺がぷいっと競馬をしなくなる、馬券を買わなくなることなんて簡単なのだ。現に、ひどい負け方をしたという理由で、俺はこの夏にぜんぜん馬券を買わなかった。買わなくても死ななかった。人生がおおきく変わることもなかった。俺の気分一つで、俺は競馬をやめられる。
 一方で、生業としている人にとってはどうだろう。競馬はまさに生業であって、競馬がなくなれば、人生がおおきく変わる。競馬にたずさわる仕事を手放すことになる。あるいは生活以上のなにか、人生のかかったものだ。それに俺は魅力を感じたり、憧れたり、共感したりする。同じ競馬に関わる人間であると思いたい。いや、広い意味で、俺も実際に競馬にオミットしている人間ではある。が、しかし、やはり決定的に違う。俺のは娯楽としての競馬だ。そこで、彼らの側に立つことは許されない。俺はその線引きを、しっかりと自分に課していたい。俺にとっての競馬と、彼らにとっての競馬は等価ではない。もちろん、「彼ら」とひとくくりに言っても、立場によってずいぶん違うだろうし(馬主などは特異な位置にあるようにも思える/一口馬主さんなども、ただの馬券買いとは隔たりがあるかもしれない)、その中でもいろいろの価値観や線引きはあるだろう。しかし、自分の線引きはそこにある。

競馬に物言うこと

  • 「ファン」であることが<情緒的>であることの免罪符になるのであれば、全く等価に、「関係者」であることが<打算的>であることの免罪符になる、ということ
    • それを是とするのであれば、少なくとも僕ならば、競馬に、競馬人に対して、一切の批判的言動ができなくなるでしょう

 が、それは自分が関係者に批判めいたことを言わないということでもないし、彼らの打算をすべて受け容れて無理にでも納得するということではない。俺は、一ファンとして俺の欲する競馬についての願いを言う。ときにはそれが批判にもなろう。批判の宛先のはっきりしないような、ぼんやりとした批判にもなろう。嘆きにも、愚痴にもなろう。俺には、それしかできないし、一方で、それが、一ファンの、少なくとも自分の競馬の中での役割の一つと思うからだ。それが、「斟酌しても、あえて一ファンがそれを内面化しすぎる必要もない」という俺の立場(「斟酌することなく」ではない)であり、節度だ。
 先にも述べたように、俺にとっての競馬は数ある選択肢の一つにすぎない。俺の望まぬ競馬になったら、出馬表を見てもときめかなくなったら、俺は馬券を買わなくなる。ぷいっと競馬からいなくなる。ただそれだけのことだ。たぶん、これはよほど特殊な事情のあるファンでもなければ、少なからぬファンに共通することではないだろうか。でも、俺はできれば俺の好きな競馬があってほしいし、俺は競馬とともにありたいと思う。だから、俺は俺の分について、これこれこういう競馬を望む、と言う。サイレントクレーマーになって、声もあげずに立ち去るには、競馬は惜しすぎるからだ。
 ……まあ、馬券が当たらなすぎて一夏休みます、というあたりについては、俺の勝手な無能と貧乏が原因であって、誰にも八つ当たりできないから、単に愚痴るだけ。それは競馬界への抗議などではないので。

一分の虫、有馬の100円

 しかし、俺が競馬をやめること、俺が競馬界に物言うこと。それにどれだけの影響力があるだろうか。はっきりいって、皆無に等しい。有馬記念で100円だけ馬券を買ってもオッズが動かないのと一緒だ。小数点の下にゼロがいくつもならんで、その先に辛うじて1の数字があるかどうかという程度だろう。でも、俺の等身大はそれでしかないのだし、誰か10人や100人、1000人のファンの代弁者にはなれないし、なろうとしたところでなれるわけでもない。
 だからこそ、俺は俺の分だけは、せめて物を言っておきたい。皆無に等しい影響しかなくても、競馬の向こう側の誰かに届くような可能性があればいいと思う。いや、届かなくてもいいし、届いたところでなんの影響を与えられなかったり、逆効果になったっていい。もちろん、俺以外にもいろいろの競馬に対する意見があって、他のファンのそれに対してものすごい少数派、あるいは1かもしれない。でも、それならそれでいい。でも、俺は俺の分だけ競馬に参加したいし、有馬記念を100円だけ買うのだって立派な競馬へのオミットだ。俺は馬券を買うから、負けることには慣れてるんだ。
 そんなわけで、「俺はブルーコンコルド種牡馬入りしない競馬は不満だ」と意思を表明するし、それが情緒と感傷に依ることを隠そうともしない。この意見ははずれ馬券かもしれないが、それでいい。俺が好きな競馬は、中央の平場や大井の馬柱の父親欄に、ブルーコンコルドの馬名が見つけられるような競馬だ。「ブルーコンコルドじゃなくったって、たとえばアジュディミツオー種牡馬入りするという話もあるし、地方で成績をあげただけのような、マイナー種牡馬は一定数でてくるだろうよ」というような見方もあるだろうし、それは事実だ。交流路線の価値の低さ、売上の低さなんてのはわかってる。そのあたりのラインは偶然というか、よくわからないなにかだ。ゴーカイが種牡馬入りしたりする。でも、よくわからんなにかに、俺は声を出そう。ひょっとしたら、ブルーコンコルドに、あるいは今後出てくる似たような例に、なにか影響があるかもしれない。おそらくはない。有馬記念の100円だ。でも、俺は言う。100円でも馬券を買った方が、競馬は楽しい。もちろん、買わないで楽しんだっていい。

もちろん私的な感情を言えば、種牡馬なんてやってみないと分からない、という気持ちも当然ありますし、著名馬の産駒を見てみたいというのも理解できます。しかしだからといって、オーナーや生産者にそのリスクを取れ、と要求するほどの厚顔さは持てない、というのが正直なところです。

http://d.hatena.ne.jp/Southend/20091109/p1

 むろん、俺の意見も立場を異にすれば厚顔無恥、あるいは無知をベースにした単なる赤ん坊の駄々かもしらん。誰か生産者、あるいはファンの心証を害しているかもしれない。べつにそう思われればそれをどうコントロールすることもできない。とくに俺はブルーマネジメントの会員ではないし、どの一口すら買えないような零細ファンだ(いつかは買いたい)。そのファンが競馬を飽いて、いなくなるくらい、競馬界から見たらなんということもない。
 ただ、一方で、ひとりのノイジークレーマーの裏には、無数の声なきサイレントクレーマーがいるかもしれない。そうでないかもしれないし、それを判断するのは競馬を生業とする誰かだ。ビジネスとしての誰かだ。とりあえず、日本の競馬がファンの落とす馬券代で成り立っている以上、そういう面はあるはずだ(馬券売り上げ=賞金をベースにしない他国の場合、あるいは貴族的な競馬のあり方の中では、また違うかもしれない)。もしかして、万が一、そういったなにかに、有馬記念の100円分の影響でもあればいいと思う。俺の意見が生きる、生きないではなく、材料の一粒になればと、そんな思いがあって、俺はできるだけ俺の生の声を提供できればと思う。それで、ファンの声を損得として勘定する誰かのなにかに繋がればと思う。
 だから、できるだけ分をわきまえて、感情を吐露する。できるだけ、感情だ。「ブルーコンコルド種牡馬入りしないのは面白くないけれど、このご時世だから仕方ない」というスタンスは取れない。俺は感情で、楽しいと思えば競馬にコミットするし、そうでなければ生活からパージするだけだからだ。論理や理屈で競馬に相対しない。たとえば、もし、金の損得で競馬をやっているなら、とっくにやめて水彩画でも描いている。ブコウスキーだってこう言ってる。

だから競馬に関してなにか一言いってくれっていわれたら、こういうね。「水彩画をはじめなさい」

電脳馬券生命体はオケラ街道の夢を見るか? - 関内関外日記(跡地)

 まあ、水彩画はいいや。そうだ、金の損得ではないんだ(もっとも、貧乏なのでひどく負けがこめば買えなくなるが!)。でも、感情の損得はあるんだ。そこのところを、競馬の関係者側に伝えたいというところがあるんだ。「いくらこのご時世とはいえ、ブルーコンコルドくらい種馬にしてやってよ。だれか金のある人、道楽でやってみてよ」って。

(ただ、この「感情論」がどこまで通用するというか、ありかというか、そもそも「競馬ファンの分」を誰が決めるのかというと、俺は俺自身について勝手に決めているが、じゃあ、人のは? というとこれが問題で。たとえば、厩舎に電話して「○○は次はダートを使え」と要求したり、牧場に電話して「××には△△を配合しろ」などと言うのは、分を超えてるよな、とは思う。でも、その線引きって。あと、競走馬の余生のような話題、馬の生き死にという競馬の根幹に関わる点については、これはなかなか慎重に扱わねば、競馬の持続すら危うくする話題ではあるように思える。さて)

競馬よ回れ

 もちろん、伝えたいのは批判ばかりじゃない。面白そうなレースには面白そうだって言うし、楽しかったら楽しかったって言う。好きな馬について語って、競馬人について語ったりする。みんな、それぞれに、自由にそうやればいいと思う。
 その結果、ある人、馬の解釈で意見の相違があったって、そんなのはいいんだ。当たり前だ。なにかを肯定すれば、なにかが否定される。それは否応ない。競馬自体も、そんな面がある。でも、せめてそいつの中では、そいつの馬がいつも一等賞になったっていいんだ。なるべきなんだ。馬券は冷酷なまでに結果が出るが、タラレバにゴール板はないんだ。
 そう、もちろん、競馬について語る事は楽しみである。楽しみでなければ、こんなに言葉は出てこない。そして、できるだけ多くの、生の声を聞きたいと思うし、そんな一分の虫のたくさんの意思(べつに声に出されずとも)とお金がたくさん渦巻いて、動いて、競馬というギャンブル、スポーツ、興行、文化を回しているのかもしれないと思う。そう、思いたい。

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