五馬身後ろからの風景〜山際淳司『ナックルボールを風に』を読む〜

ナックルボールを風に』

ナックルボールを風に (角川文庫)

ナックルボールを風に (角川文庫)

 ブックオフの棚で目に入って購入。その日のうちに読んだ。とりあげられているさまざまの選手の断片。“世紀の落球”池田純一から、西本幸雄スクイズ江夏豊の矜持、長嶋茂雄Aと長嶋茂雄A'、それに金田正一青木功加藤初足立光宏落合博満渡嘉敷勝男小林繁初代タイガーマスク……。
 「熱球投手―金田正一」の書き出しなんか好きだな。

 昔むかし、力いっぱい野球をやった人がいました。―という感じでこの話は始めるべきだろう。

 金田の話などは、いつどこでもおもしろいから困る。困りはしないが。
 落合では、こんなのがいい。

 東芝府中で野球だけやってたわけじゃない。発電所に納める制御盤を作ってたんだ。同じ職場に、十代後半のやつもいれば、五十代の人もいる。世間には、いろんな人間が生きてるんだってことを知ったんだ。それがよかったと思う。

 落合が野球界からともすれば浮いているように見える理由には、野球エリートから見たらアウトローを歩んできたという部分があるのかもしれない。
 あるいは、小林繁

 「完璧だったよ」
 彼はそういった。
 「おそらく、プロに入ってあれほどのピッチングができたことはなかった。スピード、コントロール、バッターとのかけひき、すべてにおいて、ぼくは完成の域に達したと思っていた。あんなピッチング、めったにできるもんじゃない」

 82年の開幕戦、対大洋戦。だが、この試合の最終回、小林はミスを犯す。敬遠のボールを暴投し、サヨナラ負けをしてしまう。これをきっかけに、<七回戦ボーイ>と揶揄されるような症状が起き始める。試合終盤で、急に不安に襲われるようになる。

 「ブルペンでね、ちょっとしたときに投げそびれることがあるんだ。そんなときは足がもつれたふりをしてね、ごまかす。ところが自分ではわかってる。またやったなと。マウンドの上に立っているときに、その思いにとりつかれてしまうと、たまらないね。泣きたくなることもあったよ。しかし、これは誰かにいってもしようがないことなんだ。キャッチャーを呼んで、どうも次の球がぼくの手からうまく離れてくれそうにないんだといってどうなる?」

 「キャッチャーを呼んで、どうも次の球がぼくの手からうまく離れてくれそうにないんだといってどうなる?」ここはいいな、なんか野球文学のようだ。
 ところで、その投手にとっての完璧なピッチングというものがあるらしく、先日引退した小宮山悟もこんなコメントを残していたっけ。

ベストピッチは1997年10月(6日)の神戸でのオリックス戦。まだイチローがいたころで、八回まで無得点に抑えましたが(九回は抑えの河本育之投手が完封リレー)、自分の野球人生の中で一番ねらったところへボールがいった試合でした

http://www.sanspo.com/baseball/news/090921/gsi0909211639001-n2.htm

 ……とまあ、ともかく、やはり昭和追憶の、優雅で感傷的な日本野球は面白いのだ。近藤唯之が書こうと、山際淳司が書こうと、みな生き続けている。平成野球も、今後の野球も語り継がれることを切に願う。

五馬身後ろからの風景

 例えば、ぼくはナックルボールを投げるようなピッチャーが好きだ。

 から始まる「エピローグ―ナックルボール」のすばらしい。ここでヒーローについて語られているところがある。

 小さいころは誰でもそうだと思うが、スポーツのヒーローはホントに英雄に見えるものだ。例えば、長嶋茂雄という偉大なプレイヤーは、ぼくが十歳のときに巨人に入ってきた。彼はホントにすごいやつだと、ぼくは思った。ここぞというところでよく打ってくれたし、突拍子もないダイナミックなプレイも見せてくれた。長嶋が捨て身のフルスイングをする。打球はラインドライブを描いてレフトスタンドに突きささる。それだけで、かつてのぼくらは彼を英雄と認めた。
 しかし、そういう時期を過ぎてしまうと、また別の見方が出てくる。
 彼らはその瞬間、ヒーローでありえても、人生という長丁場のレースで勝者の栄光を手にしたわけではないのだ。現役を引退し、監督として華々しい実績をあげられないとなると、彼はヒーローの座からひきずりおろされてしまった。かつて長嶋をあがめ奉った人たちが、その同じ口で、あいつは駄目な奴だといってみたりするのだった。そんなことで駄目の烙印を押されてしまうなんて、本人にとってたまらないだろうと思うが、世間は冷酷かつ簡単に自分たちで作りあげたヒーローをひきずりおろすものらしい。

 永遠のヒーローなど、どうやらいないらしいと、大人になったぼくらは知ってしまうのだ。ヒーローを求めながら、ヒーローに裏切られ、あるいはヒーローを裏切っていく。それがスポーツにおけるヒーローとファンとの関係なのかもしれない。

 今のぼくはそういう愛憎入り混じる関係を、好まない。それはベタベタとした男女関係を好まないのと同様だ。むしろ、ジム・バウトンのような、ナックルばかり投げつづけて、人知れず引退していくピッチャーとの、ほとんど無関係に近い関係を好んでみたりする。彼らには、絵に描いたようなヒーローとは違った味があるのではないか。

 俺はどうも、このあたりを読んで深い共感を覚えるとともに、自分の野球観、そして競馬観について思うところがあった。そうなのかもしれない。俺が、たとえば昨日のジャパンカップで、ジャストアズウェルという、ほとんど来年には忘れられているだろう馬からレースを見てしまったりするところ、そんなところではないか(俺も来年忘れてるかもしれないが)。たとえば、俺のプロフィールに挙げている「好きな競走馬」は以下の通りだ。

好きな競走馬
カネツクロスタップダンスシチーゴールドヘッドキャニオンロマンオリオンザサンクス、オレハマッテルゼ、アサヒライジング

 競走馬としてデビューすることの難しさ、競馬で一勝すること淘汰を思えば、いずれも、名馬である。中にはG1を勝った馬もいる。名馬中の名馬、勝者中の勝者だ。しかし、これらの馬が長嶋茂雄クラスかといえば、それは違うだろう。ナックルボーラーのジム・バウトンも、全盛期のピート・ローズに五球続けてナックルを投じ、三振に打ち取ったこともあるというし。
 まあともかく、単なるマイナー好きといわれればそうかもしれないが、どうも自分はピカピカのヒーローが苦手だな、というところもあるんじゃないかと、そのように思ったわけだ。競馬でいえば、たとえばウオッカダイワスカーレットだとか、いまだに名前を見るエルコンドルパサースペシャルウィークグラスワンダーの論争だとか、そういうのは苦手だ。もちろん、「タラ・レバ」は俺も好きだし、それが競馬だとは思うが、なんというか、どうも自由な空想とはかけはなれた、なんかドロドロとした感情、そう、愛憎入り混じるベタベタした感じをうけることもある。そこから、無意識のうちにヒーローやヒロインを忌避しているのかもしれない。そして、そんなんだから馬券が当たらないのかもしれない。
 あと、なんだ、上に挙げた馬たちは、わりと早い段階から目を付けていたところがあって、活躍しだしてG1を勝ったりされると、なんか離れてしまったようなところもある。昔、広島カープ関係の掲示板で「嶋重宣のバッティング技術はすごい。一軍で使うべきだ」と繰り返し主張していた人がいたけれども、彼も嶋が首位打者を獲ってしまったときに、どんな思いを抱いただろうか。素直な喜びばかりではないように、俺は勝手に想像してしまう。
 まあ、そんなわけで、俺は今後も神話上の存在を除いては、おそらくヒーローらしいヒーローについて語る言葉を持たないだろうし、またそういったところの五馬身後ろくらいから、なんか見ていくんだろうな、などと思っている。おしまい。

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