左乳首に絆創膏を

※乳首画像ありません

 ここ数日、左の乳首に絆創膏を貼って過ごしています。左の乳首だけです。右の乳首には貼っていません。それから、ぼくには今のところ二つしか乳首がない。
 なんで三十一歳の男が、片方の乳首に絆創膏を貼るのでしょうか? 
 はい、ここです。この一瞬が肝要。みなさんの想像力が試されています、いま、まさにこのときに。このときを逃せば、一生あなたは想像できない。その覚悟が必要だ。
 さて、答え合わせをします。その答えは、「朝、シャワーを浴びていて、髭剃りをする段階になって、ぼんやりしながら乳首付近の毛を剃ったら、乳首も剃れた」です。
 いや、「乳首も剃れた」は言い過ぎです。ポロリと落ちたりしていたら、いまごろこんな風に日記など更新していられないじゃないですか。でも、血が出たのです。胸から血を流していたのです。
 僕は手当をしました。まず、こんなところが化膿したりしてはたまらない。エタノールで消毒し、さらにアクリノールをつけ、そしてアクリノールを浸した絆創膏を貼りました。剥がれるとおもしろくないので、十字にしたりもしました。
 ともかく、僕の乳首は隠れました。……そのときの僕の気持ち、わかりますか? ひとことでいえば、「なにかヘン」な気持ち。そして、この「なにかヘン」は、多分に性的な意味で、ですので。ある種の、倒錯的な意味で、ですので。

 そうして僕はここしばらく、「なにかヘン」な気持ちで過ごしているといっていい。ふとため息ひとつつけば、絆創膏で隠された左乳首のことを思うのです。
 とはいえ、その秘密、それはもろもろの衣服の下にあって見えはしない。ただ、僕の中で意識される。隠されたことすら隠されている。ここに隠微ななにかがある。あるいは淫靡ななにかがある。僕はそう思うのです。
 そして、これは秘密であるべきだ、とも。しかし、「秘密であるべきだ」ということは、逆にそれが顕になることを望んでいるようにも思えます。秘密は常に、価値の転倒を内在しているのです。
 そう、もしも僕が交通事故に遭ったとしよう。手術か検査かが必要で、僕の服は脱がされる。そこで看護婦《不適当な用語》は目にするだろう、絆創膏で隠された僕の左の乳首を。僕が秘める何かは、顕になったこれを内包している。
 そしてまた、その看護婦の当惑や困惑、あるいは無視をも内包している。僕はそう信じる。ある看護婦はなんの感慨も抱かず、乳首擦れに悩むジョガーかなにかとみなし、無表情にそれを剥がすだろう。またある看護婦は、これを剥がしたが最後、封印されていた淫魔が放たれ、院内がソドムの同窓会みたいになるかと思うだろう。その可能性のすべてが、僕の左乳首の絆創膏に秘められている。
 そして、できるなら、僕は淫魔を解き放ちたいのです。とても大きく、巨大で、でかい、エロい何かを。だから僕は、その力を溜め込むために、この絆創膏を貼り続けよう。この国を、世界を覆う、大きな淫魔を体内で育て続けよう。その日のために、その日のために、僕は。