フライパンを買いに来るお客様に子供靴をお買い上げいただく方法

ei perustu tositapahtumiin

 あれは、僕がとある鉄道系の百貨店に勤めはじめて三ヶ月くらい経ったころのことだ。研修もひととおり終えて、たまに鏡にうつる自分を見れば、ちょっとはデパート店員らしくもあり、それがなぜかすこし面映く感じはじめたころだ。
 水曜日の朝のこと、上司に呼ばれて、フロア接客の実習をせよとの命を受けた。なんでも、系列が誇る接客の神様のような人が来るので、彼女から学んでこいとのことだった。接客の神様と聞き、何やらこの業界の秘密を覗き見ることができるような気になったりもした。それに、接客の神様はどんな人なのだろう?
 
 ……たんなるおばさん。そう、接客の神様は、たんなるおばさんだった。今もって、そうとしか表現できないくらいに、ふつうのおばさんだった。年の頃といえば五十代は半ばか、自分の母と比べてみても、上のようであり、下のようであり、ただ丸顔で人懐こそうな雰囲気をしていた。
 「あなたが新人さん? よろしくね」
 と、挨拶も早々に、彼女はフロアへ出ていく。僕はその後を黙ってついていく。一挙手一投足に目をそらすまいなどと思うも、自分よりずいぶん背の低い彼女の背中越しに、いつもの陳列が流れて行くだけだった。
 彼女が最初から目的地を決めていたかどうかは定かではない。彼女は調理器具のコーナーで足を止めた。売場の女子社員に一瞥くれると、その子は一礼してすっと姿を消してしまった。なにかが始まるのだろうと、変な予感みたいなものはあった。何かの直感。今にしてそう思う。

 さて、平日の午前のこと、あまりお客様は多くない。調理器具のコーナーには男性客が一人。歳は三十代の半ばか、顎にちょっと無精髭を生やし、なにか時流に乗った仕事をし、堅すぎずラフすぎずといったいでたちにはそれなりの金額をかけていると見受けられる。彼は吊るされたいろいろのフライパンを手にとって重みを確かめ、少し降ってみたりしてまた戻しを繰り返していた。
 絶妙のタイミング、そう、よくわからないが、絶妙のタイミングだった。神様はすっと男の領域に潜り込んだ。ベテランの名チャンピオンだったら顎に一発ノーモーションのパンチを食らわすところだ。だが、ここはデパートの調理器具売り場だった。彼女は懐に入り込んでこう言った。
 「フライパンをお求めですか?」
 なんのことはない、当たり前のひとことだった。
 「ええ、いや、こんど結婚することになりましてね、妻と家事を分担することになったんです。自炊なんてしたこともないのに、料理をしなくちゃいけなくなって。それで、せっかくなら自分用のフライパンを買おうなんて思いましてね」と男。
 「まあ、それはおめでとうございます。そうですね、男性の方はこだわりの道具をお求めになられますからね。せっかくなら、長く使えるものをおすすめしたく思いますが」と彼女。
 「それが、サイズもいろいろだし、鉄だのフッ素加工だのいろいろあって、よくわらないんですよ。料理は二人分なんですがね、どんなのがいいですかね」と男。
 そして彼女のフライパン講釈がはじまった。実際に手に取り、手に取らせ、重さのこと、熱伝導のこと、表面加工のことなどを簡潔に説明していった。それは見事なものだった。が、僕は一方でどこに神様の技があるのかわからず、それをわからぬ自分に焦りに近いものを感じていた。そして、客の男もどうもしっくりくるものがないといった表情を浮かべ始めていた。
 
 そのときである。不意に客の男の両の目を見据えて言ったのだ。
 「それからお客様、フライパンのサイズというのは皆様周囲のことをよくお考えになられるんですが、高さというのも大切なのですよ。それに、先程からお客様がお手に取られるようすをみていて、なにか高さを気にされているように感じまして。フライパンの高さになにか思い入れのようなものはございませんか?
 男は虚を突かれたように押し黙る。押し黙って彼女の目をまじまじと覗き込む。覗き込むや否や、もとよりあまり長くない側頭部の髪を掻き上げる。そこに見えたのは長方形の凹みだった。皮膚は茶色く変色している。長年かけて踏み固められた一本の轍のようにも見える。
 「……そうなんだ、父さんが、いつもいつも、フライパンのへりで、僕の頭を殴るんだ。僕はいらない子だったって、何度も、何度も、いつも、いつも、同じ場所を、殴りつけて、まだ、熱いフライパンで! なんども殴るんだよ!」
 そこにいたのは、先ほどまでの若い小金持ちなどではなかった。目にいっぱいに涙を浮かべて、助けるを求めるひとりの子供だった。
 「まあまあ、痛かったわよね。そう、わかるわよ。そう、大変だった。ほら、あなたはなにも悪くないの。辛かったね。言いたいことがあるなら、なんでも話そうね。大丈夫だからね」
 彼女の口調もまた一変した。優秀なカウンセラーのような、いや、そんなものではない、優しさそのもののようななにかだった。僕は目を離すことができなかった。
 「おねえちゃん、おねえちゃんだけはかばってくれたんだけど、でも、父さんにはさからえないし、おねえちゃんがひどいことされるのいやで、ぼくはいつも夜は物置にとじこめられて……!」
 「あれは大変だったよねえ。よくがんばったね。暗い物置はさむかったしね……」
 男はとりとめもなく自らの過去を話す。彼女はそれをすべて承知のように受け入れる。やがて、すすり泣く男の頭を撫でる彼女。が、一瞬のことである、男から目を逸らし、いつの間にか近くにいた売り場担当者に目配せをした。担当者は一礼し、デパートの店員が許される最大速度で別売り場に向かって去っていった。男は泣きじゃくって、神様にしがみついている。
 
 一分だったか二分だったか、先ほどの担当者が戻ってきた。手に持っていたのは……女児用の靴だった。なにか魔法少女のキャラクターがプリントされた女児用のスニーカー。まったく場違なものの登場に、僕は唖然としてた。
 が、客の男は違った。それに気づくと、一目散で駆け寄り、乱暴にぶんどった。そして、女児用の靴に頬ずりし、鼻を突っ込み深く息を吸い込み、舌を這わせ、恍惚の表情すら浮かべ始めたのだ。
 「ああ、おえねちゃん、おねえちゃん……! 物置の中で、おねえちゃんの一輪車、ローラースケート、それに靴があって……!」
 みるみる男の股間が膨らんでいくのがわかった。すると、またもや絶妙のタイミングで神様が男に近づくと、まったく自然のようすでズボンのチャックを下ろす。真っ昼間のデパートの調理器具売り場に似つかわしくない肉の棒が見事に跳ね上がった。男は左の手で女児用スニーカーを顔になすりつけ、右の手を激しく股間で上下させる。一心不乱のそのさまは、神々しさすら感じさせ、僕はなにか神聖な儀式を見ているような気になってしまった。見とれてしまったといってもいい。男の一物はますますそりかえり、反復動作は勢いを増していった。
 それが、あっという間のことだったか、いくらかの時間が経ったのか、ついぞ僕にはわからなかった。だが、ついに男が爆ぜた。爆ぜた先は、もう一方の女児用スニーカーだった。神様の指示で、女性店員が適切な位置に構えていたのだ。それは長い長い射精だった。あきれるほどたくさんの精液が流れつづけ、そして、スニーカーの中身いっぱいになってようやく脈動はとまった。すべての時間もとまったようだった。
 男は我に帰ると、神様にこう言った。
 「この店にあるすべての女児用スニーカーをください。……いや、子供靴全部を!」
 
 男はいくつもの紙袋を抱え、心底満足そうな顔をして店を出ていった。僕は、彼の側頭部の轍が影も形もなくなっていたを見逃さなかった。
 「新人さん、あなた、ドリルと穴のお話はご存知?」
 背後から不意に神様が僕にたずねた。
 「ええと、ドリルを求めにお店に来られたお客様に、たんにドリルを売るだけではいけない。その目的であるところの穴を提供していることを意識していなければならない、というような話でしたか?」
 だれかのビジネス書をだれかがまとめたものを読んだような、そんな記憶の断片でしどろもどろにそう答えた。
 「まあ、そんなところでしょう。そうね、喉が乾いている人に水を売るのは商売の下、あたりまえのことですからね。つぎに、ドリルを求めるお客様が必要としているのは穴だと理解すること。そして、ドリル以外の穴の開け方を提案したり、穴以上に穴の目的を満たすものを提供する。これで商売の中。でもね、多くのお客様は、実際のところ自分がドリルを欲しがっているのか、穴が必要なのかなんて、ちいっともわかってらっしゃらないの。それを欲しているのが自分自身であるかすらわかっていらっしゃらない。結局のところ、私たちのお仕事というのはね、お客様の代わりにドリルを買って、お客様の代わりに穴を開けることなんですよ。お客様がなにを欲しているかは、私たちしか知らないの。これが商売の上。それをよくお覚えになってね」
 僕がぽかんとしていると、彼女はちらりと売れ残った女性用の革手袋の棚を見た。そして僕の目を見据えて語りはじめた。
 「ところであなた、ひょっとしたら子供のころに……」
 
 僕はその日の午後、上司に退職願を出した。そして、女性用の革手袋いっぱいの紙袋を両手に、短かった勤め先を後にした。帰り道の電車の中、僕は小学3年生のある日の出来事を反芻していた。満員電車の中、冬でも半ズボンの僕の太ももにふれた革手袋の冷たさ……。
 言うまでもないことだが、それは模造記憶だった。あの客も、父親にフライパンで殴られたことなんてなかったのだろう。姉がいたかも疑わしい。それでも彼はたくさんの子供用の靴を買い、僕は女性用の革手袋を抱えてこうしている。彼も僕も、いくらかのお金を支払った。支払って、求めていたものの対象を得たのだろうか。それはなんの対象だったのだろう。支払ったのは対価だったのだろうか。

 結局、僕はいま、女性用の革手袋を売る商売をしている。多くの顧客は女性でもないし、指先の防寒を求めてもいない。ましてや革手袋にフェティシズムを求めているわけでもない。自分に手があるかどうか知っているかもわからない。そんなのを相手に、ひとり商売をしている。


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