そろそろ寝ようかと思ったら、安アパートのドアを叩く音がした。おれの部屋には呼び鈴もインターホンもない。こんな夜深く、なにごとかとドアを開けると、おれと同じ背丈くらいのカエルが立っていた。
「こんばんは、夜遅くにすみません、完全栄養食のパン屋の使いです」と、カエル。
「こんな夜遅くになんだね。完全栄養食のパンの配達ならまだ先だろう」と、おれ。
カエルは汗を拭うような仕草をしながらこう言った。
「それがですね、お届けしていた完全栄養食のパンにですね、問題がありまして……まあカビがですね、生えている場合が、万が一ですよ、万が一にもあるというわけでして、回収に伺ったわけです、はい」
おれは完全栄養食のパンを定期購入している。おれには持病があって、ろくに食事を用意できないときがある。そんなときに賞味期限が長く、手軽に食えて、腹持ちもし、栄養もある完全栄養食のパンは重宝する。
「しかしね、いまさら言われたってね、もう何個も食べてしまったよ。それはどうするんだい。健康の保証はあるのかね?」と、おれはきいた。
「はい、まことに申し訳ありませんが、健康の保証といいますか、そういったことはできませんが、お代につきましては、もう食べられてしまったものにつきましてもお返ししますので、どうにかご勘弁を……」と、恐縮した様子のカエル。
「金の話をしているんじゃないんだよ! わかるかね、健康の話をしている。もし僕がカビつきの完全栄養食のパンを食べてしまって、……癌、癌にでもなったらどうするかという話だよ!」
おれは少々気色ばんで言った。言ってみた。夜遅くに訪ねてきて、なおかつそいつがカエルだということにだんだんいらいらしてきたからだ。
「お客様、困ります、ああ、そんなことはおっしゃらないでくださいませ。そもそもカビが生えていたかもわかりませんし、その確率は非常に、非常にですね、低いわけです。それにですね、カビが生えていたからといって、お病気になられるという、その、因果関係というものもわかりかねますので、ええ、どうにか……」
カエルは恐縮したようすでそう言った。おれは畳み掛けることにした。
「それじゃあ話にならないな。誠意が見えないよ、誠意。誠意ってなんですか? まあいい、しかしだね、僕もカエルを食べてしまうヘビというわけでもない。それじゃあ、あれだ、その、来月分の配送を無料にしてもらおうか。なに一月分でいい。それで僕の気持ちもおさまらないというわけでもない」
するとカエルは困ったような顔で言う。
「お客様、お客様、もうしわけありません、わたくしはあくまで使いのものですので、そのようなことを決めることはできませんので、どうかここは完全栄養食のパンの回収、回収だけさせていただけないでしょうか。お代は、後日、会社の方から振り込みますので……。ええ、来月のお代につきましても、どうか会社の方にご相談といいますか、直接お話していただいて、わたくし、使いですので」
もう埒が明かないな、おれはと思った。部屋に引き返し、包装された完全栄養食のパンを抱えてもどった。
「もういい、君じゃ話にならんことはわかった。しょせんはカエルだ、駄ガエルだ。とっととこれを持って親ガエルの元にでも持っていけ。なんなら食ってもいいぞ、癌にでもなってしまえ」
おれがこう吐き捨てると、カエルの表情が変わるのがわかった。表情どころか、緑色の体表が赤く変わっていくではないか。
「お客様、わたくしは完全栄養食のパンがいくらけなされようと、べつになんとも思わんのです。しかしですね、カエルってことをばかにされるのは筋違いってもんじゃないですか! だれも好き好んでカエルやってるわけじゃあないんですよ! これってカエル差別ですよね? このレイシスト! 人非人! だれが好き好んで、こんな夜おそく、完全栄養食のパンの回収なんかを!」
今にも飛びかかってきそうな気配に、おれはひるんだ。おれは喧嘩なんてろくにしたことはないし、ましてやこの大きさのカエルなんて初めて見たのだ。どんなことをされるかわかったもんじゃない。
「いや、落ち着いてくれ、頼むから、ちょっと冷静になろう。カエルを悪く言ったことは、謝ろう。僕が悪かった。謝る、僕が悪い。だから、ほら、完全栄養食のパンをね、回収して、あああ、無駄な時間をとらせて悪かった。正直すまんかった。ちょっと僕も、虫の居所が悪かったから、つい口に出してしまったんだ。なあ、君……」
するとカエルはさらに声を張り上げた。
「虫って言いましたか? カエルだから虫でも食ってろって! なんだ、あんたなんかね、きどって完全栄養食のパンなんか食わずに、直接カビ食ってればいいんだ! このカビ食い野郎! ……!」
もう半狂乱になっていて、なにを言っているのかわからない。おれは完全栄養食のパンを押しつけると、ドアの外に思い切り乱暴に押し出した。押し出して、すぐにドアを閉めてかぎをかけた。心臓がどきどきしている。のぞき穴から外の様子を見る。カエルの姿は見えなかった。嫌な汗が流れる。しばらく様子を伺っていたが、カエルの鳴き声一つしない。静かな夜だった。
疲れ果てたおれは、会社のLINEに「不調なので明日遅れます」と打ち込み、ベッドに倒れ込んだ。明日の昼に起きても食べるものはない。
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