秋の野原を行く

 

おれはジャージを着て秋の野原をずったらずったら歩いていた。この世界はどうかしちまって、ジャージで心地よくすごせる季節が減ってるみたいなんだ。季節までおれに嫌がらせをするのか。おれは腹が立ってしまって、そこらへんの草をむしり取って、投げ捨てた。

 

「おい、きみ、草がかわいそうじゃないか」

 

いきなり話しかけられた。声の主をみてみると、一匹のタヌキがいた。戯画化されたタヌキなんかじゃない。『ダーウィンが来た!』の定点カメラに映ってるようなリアルなやつだった。

 

「リアルなタヌキが話すなよ」とおれ。

 

「それは問題じゃないんだ、命は大切にしなきゃいけない」とタヌキ。

 

煮て食ってやろうかと思ったが、あいにくおれのポケットにはiPhone 14 Proしか入っていなくて、タヌキを殺すのは無理だった。きみたちは素手でタヌキを殺せるか?

 

「もう、そういうのは聞き飽きたんだ。世界は絶望しているってなんでわからないんだ? おとなしく森へ帰れ。妻と子供を大切にしろ。自転車のチェーンに油をさすまえに、オイルクリーナーで汚れをとれ」

 

おれがそう言うと、タヌキは首をかしげてこう言った。

 

「絶望だって? きみは絶望しているのか? きみは絶望を知っているのか? わたしは絶望を知っている。わたしは若いころフットボールの選手だった。海外でプレーしたこともある。ザンクト・パウリはいいチームだった。しかし、膝に大怪我をしてしまったんだ。わたしにはフットボールしかなかった。失意のなかで帰国して、オピオイド浸りの日々だ。ついにおれはタヌキになってしまった。一匹のしがないタヌキに」

 

風が吹いておれの髪をなぶった。おれはポケットに手を突っ込んだまま言った。

 

「なるほど、おれは絶望したことはない。だが、希望をもったこともない。なにがしたいのかもわからないし、したいことがわからないからそのための努力のしようもない。でもな、おれじゃない、おれなんてちっぽけな存在じゃない、世界そのものが絶望しているんだ。おれにはそれがわかる。間違いのない事実だ」

 

「どうやらきみには自我というものがないようだ。あるいは未成熟すぎる。やりたいことを見つめ、それをやるために何が必要か考え、勇気を出して実行するんだ。失敗することもあるだろうが、成功することもあるだろう。自分でやろうとしたことをやりとげたとき、人生は会得したものになるんだ。わかるか?」

 

おれは足元の小石を拾ってこう言った。

 

「タヌキ風情が人生を語るべきじゃないな」

 

おれは石をタヌキめがけて目いっぱいに投げた。最盛期の紀藤真琴みたいなフォームで投げた。しかし、石はタヌキの右後ろに大きく逸れた。

 

「軸足が安定していないんだ、きみは」

 

そう言うとタヌキは枯れ葉林のなかに去って消えた。

 

おれはまたずったらずったら歩きはじめた。おれの身体には世界不安がのしかかってきた。ちょうどいい太陽にちょうどいい空気、そしてちょうどいい風が吹いているのに。

 

コーヒーが飲みたくなった。しかし、おれはしゃれたカフェにも、古い喫茶店にも怖くて入れない。コンビニでペットボトルのブラック・コーヒーを買った。部屋に帰り、テレビをつけると東京の第十レース。スターターをのせた台があがった。スターターは旗を振った。ダートの二一。色とりどりの勝負服で着飾った騎手たちをのせて、馬たちがゴールを目指して走り出した。

 

おれはぼんやりとレースを見ながら、ペットボトルの蓋をあけた。薄くてしゃばしゃばのコーヒーを飲んだ。今日の夜はなにをしよう? 酒を飲んで、眠るだけだ。そうしている間にも、世界はよりいっそう苦痛を増して、暗闇が入り込んでくる。もう寒くなって、クヌート・ハムスンの小説の主人公みたいな気持ちになる。おれは百円ローソンで買ったメモ帳に、ボールペンでこれを書きつけている。頭はくらくらして、悲しみだけが増していく。