おれは、もうこんなところには居たくないのだけれど。


 母方の祖母がこの夏を越せないかもしれないということで会いに行った。普段は自宅で介護されているが、今日はケアセンターのようなところにいるという。

 まだ新しいケアセンター、のようなところ。エレベータに乗るにも、電子ロックを解除しなくてはならない。2階、祖母はといえば個室のようなところでもなく、職員室のとなりの物置のようなスペースに置かれたベッドに寝ていた。節電のためか室内は薄暗く、ときおり老人を載せたベッドが通路を通る。少し広いスペースでテレビを見ている老人たちもいる。話し声は聞こえない。

 祖母は糖尿病とパーキンソン病アルツハイマー病で、そろそろ誰が誰だかわからなくなっている。おれの名前を聞かされると、数回それを繰り返したが、さてどうなのかわからない。母のことをわかっているのかもわからない。たずねても、負けず嫌いのようで、決して「わからない」とはいわない。「うるさい、うるさい」といって横を向いてしまう。こういう素振りは見せない人だったという。

 始終、痰が詰まっているようで、呼吸も苦しそうだ。呼吸のつまりかたなど見ていると、SASの我が身と重ね合わせてしまう。手の形や指の形などもおかしなくらい似ている。母とおばとそんな話をする。祖母はやがて寝てしまう。感じのいい職員から話を聞く。おばによると、ここに世話になってから数年、最初からいた人はだれもいなくなってしまったという。この人もすぐにいなくなろうのだろうという。

 おばから、おれにとっては親戚ではない、だれかお年寄りの話を聞く。意識ははっきりしているが、心臓は機械で動いているような状態で、半身不随の寝たきりで、水を飲むことを禁じられているという。どんなに哀願しても、決して口から水分を摂取してはいけないという。心臓の機械の電池はあと8年もつらしい。

 生きるってなんだろう? これを中学二年生の抱くような疑問と片付けている悟りの人もこの世には多いが、おれにはやはりよくわからない。

 ところで、おれはといえば、今ダイエットをしているところである。できるかぎりカロリーを摂らず、走って走って無駄な脂肪を、肉を落としている。

 こんなに少ない食べ物で生きられるのだな、と思う。言うまでもないが、飢餓とはほどとおい。健康な生活を送れるレベルだ。とはいえ、無自覚な過去の自分と比べたら、こんなに少なくていいのか、という気持ちは大きい。

 その気持のままにつきつめていくと、「カロリーを摂取してなんの意味があるの?」というところにいきつく。生命を維持して、なにか意味があるの? 子供もいないのに。子供を持つなんてことは今後ありえないのに。

 子供どころでなく、我が身の行く末さえ、ありうべくしてありうるものでもないのに。ろくな財産もなく、だれかの財産を相続する可能性もなく、今後何十年か働いてももらえる年金は月に3万円かそこら。そもそもこの無能と労働意欲のなさから、今後何十年働くということも想像できないし、金を貯めていく可能性もない。ほとんどカウントダウンに入っている今の会社の寿命が尽きたらおしまいだろう。

 行き着く先は寿町、とうそぶいたところで、正直なところ、おれにあの臭いが耐えられるとは思えない。「臭い」は字義そのままであり、比喩でもある。

 行き着く先は、[福祉][刑務所]。なにか[人生をかけている]罪で、あるいは[ラーメンが獣臭い][暴力]で。

 現実問題として、なにか犯罪をする度胸があるのかしら。それ以前に、人に迷惑をかけることができるのかしら。どんな関係であれ、人に関わりあうことを避けて、避けて、避けて生きていきたいのに、迷惑をかけるだの、その事後処理にかかずらうなど、そんなに人と関わらなきゃいけないことに、耐えられるものかしら。人に迷惑をかけるくらいなら、死んだほうがいい。比喩でもあり、字義そのままでもある。あくまでおれ一人の話である。

 下手すると長く生きてしまうかもしれないというのが怖い。かといって積極的に自裁する根性もない。そもそも、おれに根性という二文字は存在しない。努力や真剣さも存在しない。

 クロスバイクで車道を一日に100kmも走り、真夏にジョギングして、死なないかなと思っている。ただし、わざと死ぬような真似だけはしない。人に迷惑をかける形になるからだ。だれかの迷惑を引き受ける形で、一方的に死なせてもらいたい。おれが正しく、無罪でありたい。まあ、死んだら迷惑もHDDの中身も関係ない。この日記も関係ない。

 かといって、この存在が現時点で存在すること自体も迷惑なのだろう。失敗作、有罪。簡単に言えば、やっぱりおれは失敗作の自分にまったくうんざりしてしまっているし、いつもうんざりしてきた。いつだってうんざりしていた。

 おれには懐古趣味や追憶好きなところはある。あるが、「あのころに帰りたい」というのは存在しない。なぜならば、いつだって最悪な気分で、うんざりしていたからだ。とくに学校なんていうものが存在するところに戻りたくなんてない。他人に合わせ、他人の顔色をうかがい、他人に同調させられ、まったく最悪でしかない。もっとも、それができる人間がこの社会では最良なのだろうし、季節の挨拶や手土産などもそつなくこなす。おれが最悪で価値がないし、それに見合った人生を送ってきたし、これから先もあるとすれば最悪のままだろう。

 もし戻りたいとすれば、物心のない世界。老いてそこに帰れるとしても、いつまで我慢すればいいのか。おれは人に指図されるのが大嫌いだ。逆に、指図するのも大嫌いだろう。指図する立場になったことがないのでよくわからないが。

 おそらくは、この数年のおれがいちばん自由でいられて、絶頂期だったといっていい。普通の人からすれば底辺の人間の小さな自由にすぎないのだろうし、ほかでもないおれは相変わらずうんざりしていたが、結局はそういうことになるだろう。あとは下降するばかりだろう。

 主語を大きくしたくはないが、世界化する経済のしくみや技術の進歩で、無用とされる無能の人間はどんどん増えていくだろう。それを世話し、介護し、看取る人間がいてくれることもないだろう。かんたんに間引きできない作物。

 もう、こんなところには居たくない。

 かといって、行くべきところもありはしない。