メガネ奴隷はココナッツミルクティーの夢を見るか?

 つきあいでメガネ屋に入って、向こうが迷いに迷ってるうちに、ふと手にとったやつがなんとなく気になって装着したらしっくりして、相手より先に購入手続きに入ってしまうパターンというのがあって、つまりは今日そういうパターンがあったわけなのだけれども。

 まあ、安メガネ屋が気まぐれで作ったような昭和風フレームなのだけれども、このところ50年、60年、100年前くらいに書かれたようなものばかり読んでるおれにはぴったりだろう。まあ、おれはメガネと靴が好きでいくらあってもいいと思っているし、実際安いメガネをたくさん持ってる。それに、メガネ屋の店員は皆メガネをかけているのできらいじゃないのだ。
 カウンターで応対したのは年の頃おれと同じ……というのはおれの未成熟さというもので、おそらく年下のメガネをかけた男だった。
 「お客様の度数ですと、薄型の方が……」
 「いや、標準でいいです。あ、モニタ用ってのはなんですか?」
 「青色をカットするんです。表面をご覧いただくと、反射光が青色になっているのがお分かりになると思いますが」
 「いや、一日中モニタは見るんですが、色に影響が出てるとよくないんで、標準でいいです」
 (……そんな高等なカラーマネジメントなんぞしちゃいないんだが、一応はDTP者の矜持というやつだ)
 「度数の方は」
 「今しているのと同じでいいです。あ、わざと度数落としているんで」
 「ああ、それなら」
 それでは在庫の方を調べて参りますってなって、あったんで25分で仕上がりですってなったというわけで。それで、支払いして引換票もらって、別階で迷いきった末の連れの人が丁寧に検眼などしたり、レンズの件で逡巡したりしているのを無料給湯器でほうじ茶とか飲んで待ってたら25分経ったんで、カウンターに行ったというわけ。行ったら、ご用意できておりますので、おかけになってお待ちになっておりましたら、先ほど受け付けたのとは別の若い店員がやってきた。やってきて、装着して、若干まつげ接触の調整などして、保証の説明などしたうえでこんなことを言う。
 「こちらのアンケートはがきにですね、お店の対応についてのものですが、先ほど対応した●●の名前が入っておりますが、彼と、私▲▲(と言いながらボールペンで担当者欄に自分の名前を書き加える)についての評価を、名前入りでコメント欄に書いてお送りくださると、大変助かるのです。もう少しでクラスがアップするのです。ああ、ここには記載されていませんが、割引券が送られてくるので、それ目的でも当然構いませんので」
 おれは思わず笑いながら「ずいぶんぶっちゃけますね」と言ってしまった。
 べつにこんなことはよくあることだ。ユニクロに行ってもはがきを入れられるし、去年末引っ越したあと買い換えた洗濯機を配送、設置していった力持ちのあんちゃんにもお願いされた。社長室なり、お客様なんたらセンター行きのはがき。

 それで、永遠に工事の終わらない横浜駅の地下の隅のほうでココナッツミルクティーのつもりで「ココナッツミルク」って言ったら、じつはメニューに「ココナッツミルク」があったのでティー要素無しで出てきたココナッツミルクとその底に沈んだタピオカを太いストローで吸い込みながらいろいろ考えたりした。
 つまりなんだろうね、おれはメガネ屋の店内の様子は悪くないと思ったし、女に声をかけてきた女の店員の口ぶりも感じよかったし、無理にオプション・レンズをすすめてこなかった●●氏も、商品説明する▲▲氏にも好感を持った。だけれども、それでは済まされない。向こうが「お買い上げありがとうございました」って言って、おれができるだけ感じよく「どうもお世話様でした」って出ていく、それだけでは済まされない。彼らは俺によき密告者になってもらわなければ、階級だかクラスだかがアップせず、給料が上がったりしない。彼らがいくらもらっているか知らないが(おれより貰っているだろうが)、ともかくぶっちゃけてしまってまでアンケートはがきを社長室だかお客様なんたらセンターに送ってしまわなきゃならない。
 それでおれは永遠に工事の終わらない横浜駅の地下の隅のほうでココナッツミルクティーのつもりで「ココナッツミルク」って言ったら、メニューにココナッツミルクがあったのでティー要素無しで出てきたココナッツミルクとその底に沈んだタピオカを太いストローで吸い込みながら、女に借りたボールペンで店内の雰囲気「よい」、また来たいと思うか「思う」とチェックを入れ、コメント欄に●●氏と▲▲氏の対応をしごく普通に書き入れた。まあ、受け取ったやつが俺の手書きの字を読む気さえあれば、彼らはクラスがアップするのかもしれないし、なにかよいことがあるのかもしれない。
 おれはまったく店に対しても、商品に対しても、彼らに対しても悪い気はもっていないし、嘘は書いていない。書いていないと思いつつも、どこか釈然としないところもあって、やはりそれはおれが「よき密告者」のような立場に立たねばならないことであって、またその密告によってある人間の労働が評価され、その俸給が決定されていくところに、なにか面白いところも感じるのだった。
 しかし、一方で、飛び込み営業のセールスマンでもあるまい、たまたまそのとき別の客の対応をしていなかったというだけで売上げのようなものが決まるかの職場のような場合、たとえばその職場の責任者なりの判断のみで勤務が評定されるのはアンフェアの生ずる余地のおおいにあるところやもしれない。客として●●氏が少なくとも悪い印象じゃなかったぜって、客のおれが言った方がフェアなことではあろう。
 ただ、なにか、社員同士でそれぞれのボーナス額を決定するだとか、そういった社内のシステムみたいなものに巻き込まれた感じもあるし、なにかそういうった尺度の元で働かされる人間というのは……大げさに言えば、それは正しい労働のありようかどうか、そういう気にもなる。▲▲氏がぶっちゃけてしまったことも、一種のテクニックかもしれないし、「バナークリックを推奨するアフィリエイト規約違反」みたいな感じやもしれんが、そんなのは些細なことで、まあ、そんなのはどうでもいいんだ。むしろ、人間味があっていいじゃないか、このやり口、社員規約にもマニュアルには載ってないだろ?
 ともかく、おれには、これがいいことなのかどうかわからなくて、そんなこと考えながら、永遠に工事の終わらない横浜駅の地下の隅のほうでココナッツミルクティーのつもりで「ココナッツミルク」って言ったら、じつはメニューにココナッツミルクがあったのでティー要素無しで出てきた甘ったるくてうまいココナッツミルク飲んだんだ。評価経済社会? マックジョブ? チップのある社会がいいのか? そして今あらためて新しいメガネで今日のことを見返しても、やっぱりよくわからない。ただ、ちょっと書きつけておく。忘れなければはがきは送ってやる。
 ただ、おれは誰かの生殺与奪の権利も持ちたくないし、だれかのそれを持ってるやつに協力するのはおもしろくない。とうぜん、奴隷になるのもごめんだし、だれを奴隷にしたくもない。ただ、おれは頭が悪いから、なにが主人でなにが奴隷かさっぱりわからないんだ。この世はいささか複雑すぎる。でも、やっぱりおもしろくないことはおもしろくない。

 主人に喜ばれる、主人を崇拝する。これが全社会組織の暴力と恐怖の上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。
 そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去ることのできない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日のいっさいの道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残りである。
 政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども、過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業は完成しなければならぬ。
―「奴隷根性論」大杉栄

 やっぱそうだ、横浜駅の工事事業より先にやるべきことがある。違うか? でも、山手駅の工事はとっとと終えてほしいけどね。

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