先週の水曜日に精神科を予約した。
「来週の月曜の14時どうでしょうか?」
「ええと、その日の14時は混んでいますので、14時30分でいかがでしょうか」
「では、それで」
おれはいつもより15分遅く会社を中抜けして医者に向かった。15分前に出た。あまり時間に余裕はない。
しかし、おれは医者への道すがら、足を止めた。関内駅近く、スタジアム寄り高架下、テントを張って暮らしている人がいる。アウトドアのテントだ。そのテントの前に、なにか紙が貼られていた。テント住人への抗議文だろうか。おれは近づいて、読んだ。
「ここにうんこをおいたやつは許さない。次やったら警察に通報する」
テント住人の抗議文だった。しかし、嫌がらせでうんこ置くだろうか。うんこ持つのが嫌じゃないか。うんこはあったのか。野良猫などは見かけない。犬の散歩というのもあまり見かけないが、その可能性はある。いずれにせよ、よくわからない。
解体されつつある旧市庁舎前、駅の改札の正面に出る。ビッグイシューの販売員がいる。帰りに買おうと思う。おれはこの二週間くらい、競馬でひどく負けているからだ。それはもうひどい負け方だ。
ビッグイシューに馬券の必勝法が載っているのか? 否である。競馬の必勝法を読みたければ「競馬の天才」でも買えばよろしい。おれが求めているのはもっと巨大なる力である。
『ビッグイシュー』を買うと万馬券が当たる。地球はのように動いている。
おれは万馬券を夢見ながら軽やかな足取りで精神科に向かった。
大嘘である。なにが嘘か。軽やかな足取りだ。おれは先々週くらいから鬱のモードに入っている。おれが患っているのは双極性障害、わかりやすく言えば躁鬱病。その鬱に入っている。
今度の鬱はかなりきつい。朝から夕方まで動けず、それからようやく出社するという有様だ。出社するのか? 出社しなければいけないから出社するのだ。土日もひどい。なんとか競馬はするが、あとはだいたいベッドの上で伏せっていた。競馬はするのか? 競馬しなければいけないから競馬するのだ。
診察室。
「どうですか?」
「結論から言いますと、ラツーダを増やしてください」
ラツーダは統合失調症と双極性障害の鬱に効くとされる薬だ。一般名ルラシドン。まだ新しい薬だ。おれにはよく効いた。その前に飲んでいたジプレキサ(オランザピン)に比べて、鬱状態から上げてくれる効果が強かった。日中眠くならない、なにやら怪しい効果まであった。
が、そのラツーダが鬱の重みに耐えきれない。それがおれの実感だった。おれの主張は認められた。
おれの診察は終わった。おれの診察は終わったが、おれの前の診察が長かった。ずっと女性の声がしていたが、出てきたのは母親らしき人と、息子らしき学生服の子だった。おそらく初診だろうと思った。初診には時間がかかる。時間がかかるのをわかって、「もう自殺しそうです」というおれを当日受け入れてくれたのがこのクリニックだった。
そのあと、薬屋へ行った。薬剤師は医師のようにおれの症状を聞くのだけれど、こっちとしては医師に相談した上で決まった処方量なのだから、まあべつにいいじゃんと思う。二倍にしたから胃にくるかもしれないと、その情報だけでいい。
二倍病気が苦しくなって、二倍の薬が必要になって、二倍金を払わなくてはならないのは、なんか逆じゃねえのか。おれは、なんの罪を犯して、この罰を受けているのだ。おれは無差別にこの世に復讐する権利があるのではないか?
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年11月15日
そしておれは『ザ・ビッグイシュー』を買う……。はずだったが、さっきいた場所に販売員がいない。あれ? 店じまいしてしまったのか。今週も負けるのか。
と、思ったら、少し場所を変えて、その先の方にいた。中年女性と話し込んでいるようだった。おれはさっと買って立ち去ろうと思い、財布を出した。すると、それに気づいた女性が、「じゃあ私はこれで」と立ち去ってしまった。べつにいいのに。用があるのは『ビッグイシュー』だ。おれは五百円玉を取り出して、お釣りの五十円を出そうとするのを「あ、いいです」と行って、クールに去った。
クールに去ったおれは、実のところガクッときていた。鬱的な意味で、しんどくなっていた。先月もそうだった。医者に行って、薬屋に行って、薬屋から出て、急にガクッとなった。なぜかはわからない。もう長いつきあいになるのだけれど、人と話すと疲れがくるのだろうか。
ガクガクになったおれは、甘いミルクティー的なものが飲みたいと思った。ペットボトルの500mlの、とにかく甘ったるいやつ。
会社近くの自販機。三台もある。どれか一つにはあるはずだ。そう思った。が、ないのだ。ストレートティーの甘いやつ、レモンティーの甘いやつ。ミルクティー的なのがない。
しかたないので、おれはすごく甘そうなカフェオレ的なものを買った。
ごとん。
ピピピピ。
「6666」
ん?
あ、商品ボタンが光ってる。
当たった!
おれは慌てて、一番指に近いところにあった、ブラックコーヒーのボタンを押した。
おれは、ザ・ビッグイシュー・ラックをここで使い切ってしまった。
当たり付き自販機に当たるなんて、何年ぶりだろうか。いや、何十年ぶりか。記憶にない。記憶にないが、おれは片手に甘いカフォレ的なもの、片手にブラックコーヒーの缶を持って会社に戻った。
「自販機で当たったんですけど、ブラックコーヒーいりませんか?」
おれ以外にブラックコーヒーを好む人がいなかった。
おれはブラックコーヒーを冷蔵庫にしまって、甘いカフェオレ的なものを飲んだ。
おれは運を使い果たした。『ビッグイシュー』めくってみても、やはり馬券の買い方は書いていなかった。「競馬の天才」12月号には、武豊の買いどきが書いてあるというのに。
それにしても、『ビッグイシュー』の神通力は存在する。あらためておののくような気分である。
横浜で『ビッグイシュー』が売られているのは以下の場所である。横浜駅東口郵便局前、JR関内駅南口、日の出町駅駅前、戸塚駅西口バスロータリー上デッキ、JR桜木町駅西口付近。
おれが買うのはJR関内駅南口ということになる。桜木町西口……野毛ちかみちへの階段近くで見かけたことがあったようなないような。あまり駅を使わないのでわからない。日の出町駅は京急の駅で、図書館に行くときにかすめるが、駅の方まで行かないので見たことはない。
幸運を。