松下竜一『私兵特攻』を読む、あるいは真っ当な下から目線について

 松下竜一の『私兵特攻』を読んだ。『怒りていう〜』の感想でちらりと書いたが、父の本棚に鎮座しており、そのタイトルだけは頭に残っていた。本書のタイトルを知ってより、十年だか二十年だか経ってようやく読むことになった。
 ただ、若干の中身は知っていた。父から聞いたのか、べつに知った知識と結び合わせたのかわからないが、ともかく「特攻を命じていた大将だかなにかが、玉音放送の後に特攻をした」ということについての話しだろうということだ。そしておれはぼんやりと、「私兵」というのはその大将、要するに宇垣纏その人を指しているのだと思っていた。たくさんの若者を死に追いやった上で敗戦を迎え、もはや軍人でもなくなったのに特攻をした、その人の伝記であると思っていた。
 まったくの勘違いである。本書の指す「私兵」とは、宇垣が引き連れていった十一機の彗星の操縦士や偵察員のことであり、宇垣が「私兵化」して死の道連れにした者たちのことなのである。ついでいにいえば、宇垣は大将ではなく中将なのだった。
 して、本書は、縁あって最後の特攻部隊を追うことになる、版画家・寺司勝次郎(……本書ではプロローグ2行目で「てらじ」とルビがあるが、今検索をかけたらhttp://terashi.saiin.net/なのだが、まあ俺の本名も濁音に関していい加減で、クレジットカードなども作った時期によってローマ字の綴りが違う……って、閑話休題)を主人公としたノンフィクションである。なんというのか、自らも特攻訓練を受けた寺司氏が「私兵」達の周囲の人物や、生き残った当人を訪ね歩くさまを描きつつ、また先行する資料などからいろいろの類推を展開していく、といった内容になっている。著者が「的確に表現してくださった」という書評によれば寺司氏が特攻機で、松下氏がその直掩機といった関係という。で、著者の友人である寺司氏がなぜ最後の特攻隊を追う気になったか。ローカル・テレビで「最後の特攻隊」について出演したさい、こんなやりとりがあったからという。

 「ねえ、寺司さん。どうしてもう戦争が終わったと分っていながら、みすみす死ぬと分かっている特攻に行ったんでしょうね。こんな平和が来ると分っていて、なぜ二十二人もの若者が命を捨てようとしたんでしょうね」
 なんと愚かな行為に走ったものですねといいたげな若いアナウンサーの問い掛けを受けたとき、寺司は思わず激しくいい返していた。
 「どうして、こんな平和が来ると分るんですか。それはいまだからいえることで、昭和二十年八月十五日の時点では、日本がこれからどうなるのかは本当のところ誰にも分らなかったんですよ。飛行機の搭乗員は皆殺されるという噂が流れて、われわれは皆それを信じて恐れていたんですよ。毎日毎日死ぬことだけを教えられて、それだけを目標にしてきた若い彼等にとって、ある日突然訪れた終戦は殆ど意味を理解できなかったと思いますよ。―私には、八月十五日夕刻に、長官と共に出撃した彼等の気持が痛い程に分りますね」
 なぜあんなに興奮して彼等のことを弁護しようとしたのか、寺司自身にもあとで不思議な気がした。ただ、そのときの興奮がはずみとなって、彼が最後の特攻隊のことを調べたいと思うようになったのは確かである。


 本書は、「彼等」の記憶とその後の人生を訪ね歩く旅のようなものである。それぞれに記憶があり、ときにそれは正反対に食い違う。また、戦後成功したものもいれば、そうでないものもいる。
 一方で、本件主役であるところの宇垣中将についてはどうか。これには一定の距離を置いているように見える。『戦藻録』からの引用もたびたび出てくるが、とりわけ厳しい口調で断罪しようというわけでもない。かといって、もちろん賛美するわけでもない。ありのままを提出している、あくまでそういうスタンスを感じる(……で、やっぱり一人で彗星飛ばして行くなり、介錯なしの割腹でもしとけや、とか思うわけだけれども)。あくまで一兵士であった「彼等」の目線、軍隊組織の中にあって、雲の上の存在であるところの存在、その距離である。そういう意味では、取材の対象としてこの点において、ひょっとすると本書に引用されている本件の先行研究にはないものがあるのかもしれない(まあ要するに、先行する本を読んでないのでわからんのだが)。
 このあたりは、本書の中でも述べられていて、寺司氏はあくまで「下士官の視線」で最後の特攻を追おうしており、五航艦の幕僚には会わぬと決めていたのである。幕僚からはあくまで宇垣側からの公式見解のようなものしか出てこないだろうし、下士官として苦労した者の根強い上層不信もある。
 しかし、残された出撃直前の写真の中にただ一人、カメラをぶら下げた姿が写っている幕僚がおり、ひょっとしたら別角度の写真があるのではないかと考え、例外的に訪ねるのだ。して、写真はありませんかと聞くと、写したような気もするが、よくわからない。それどころではなかったと言う。

「こうして写真で見ると、なんでもないように見えるでしょう。実際にはこのときの私は立ってるのがやっとというほど、頭がフラフラしていたんですよ。――なにしろ、被曝して十日目でしたからね……」

 カメラを持っていた人物、通信参謀の高木中佐は任務で広島に居たところで被曝。髪の毛は抜け、頭はひどい頭痛に襲われて続けていたという。同じ任務で同じく被曝した二人の中佐は大分基地に帰ってきたのちに死亡している。彼だけが奇跡的に一命を取り留めた。

 ―一人一人の生死を分けた運命をどう考えればいいのか、大きなものに打ちひしがれるような思いで、寺司は小さなビルの階段を降りて行った。

 そう、高さばかりでなく、大きなもの、これを見る視線。これもやはり一人一人の小さなものより語れるところにある種の真実があるのだろうし、あるいはそうでしか語れぬものがある。本件舞台となる大分の近く鹿児島で終戦を迎えた田村隆一中尉に言わせれば、要約されざる者たちの声、かもしれない。
 
 ……と、まあともかく松下竜一の本をたて続けに三冊読んだ(松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず』を読む〜義侠の日本赤軍・泉水博〜 - 関内関外日記(跡地)松下竜一『久さん伝―あるアナキストの生涯』を読む - 関内関外日記(跡地))し、またしばらく読むかもしれない。しかし、日本赤軍三島由紀夫→大正アナキスト→特攻隊と、一貫性があるんだかないんだか。まあいい。あるいは、なにか戦記物の方に走るやもしらん。あ、どうでもいいが、本書中に米軍機「シコロスキー」というのが何度か出てきてなんだろうかと思ったらwikipedia:F4U_(航空機)のことらしい。

なお、日本海軍では主に「シコルスキー」と呼称された。チャンス・ヴォート社が一時期シコルスキー・エアクラフト社と提携していた事に由来すると言われている[要出典]。

 要出典だが、まあこんなところで、おしまい。

関連☆彡

魚雷艇学生 (新潮文庫)

魚雷艇学生 (新潮文庫)

桜島・日の果て・幻化 (講談社文芸文庫)

桜島・日の果て・幻化 (講談社文芸文庫)

肉弾 [DVD]

肉弾 [DVD]

精神 [DVD]

精神 [DVD]

……ちょっとうまく言えないが、本書を読んでいてノンフィクションとしてなにか思い浮かんだのが『精神』だった。いや、なんでだろうか、本書はここまでありのままの観察というわけじゃないんだぜ。扱ってるテーマもぜんぜん違う。でも、なんかね。