- 作者: ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー,丘沢静也
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2009/04/02
- メディア: 単行本
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1933年1月、ヒトラーが政権を掌握すると、ドイツの未来は大きく揺れた。邪魔者は次々と粛清されていく。その渦中にあって、恐れもせず、独裁政権を拒否する陸軍最高司令官がいた。利口だけど怠け者という評判で、暇をみつけては大好きな狩りに明け暮れている。ソ連とのつながりを疑われながらも、なぜ彼だけが粛清をまぬがれ、生き残ることができたのか。「現代ドイツの知性」エンツェンスベルガーが、三年におよぶ綿密な取材と調査をへて、交錯する政治的策謀をひもとく。時空を超えた「死者とのおしゃべり」を交え、ヒトラー政権前夜から冷戦の終わりまで、ドイツのひとつの物語を浮かびあがらせる。
タイトルとこの紹介文では収まらないような内容だった。……のだけど、この邦題(副題)の方や、この紹介文の方がキャッチーだとは思う。ただ、原書のサブタイトル「ひとつのドイツ(人)の物語・歴史」が指し示す方が適切だろう。
がんこなハマーシュタイン、クルト・フォン・ハマーシュタイン=エクヴォルト。ヒトラー台頭時のドイツ参謀本部(実質的な)の総長であり、歩兵大将、陸軍最高司令官。この本の主人公といっていいかもしれない。しかし、かれについて割かれたページは少ないといってもいいかもしれない。むしろこれは、がんこなハマーシュタイン一家の話であり、彼の七人のきょうだいは誰一人ナチでなく、三人の娘は共産主義にのめり込み、息子のうちの一人はシュタウフェンベルクのヒトラー暗殺に加担したりしている(最後、シュタウフェンベルクが襲撃されたさいにうまく逃げることができたのは、その場が彼の父のかつてのオフィスであり、子供の頃の遊び場だったからだったという。兄弟の方は直接加担していないものの指名手配されるが、自分の部隊である装甲擲弾兵師団グロースドイッチュラントの制服が親衛隊のそれに似ていることを利用して逃げまわったりしたらしい/wikipedia:グロースドイッチュラント師団)。
でもまあ、とくに娘たちの歴史というのがなかなかすごい。もちろん、ドイツ共産党、さらにはソ連から、その身分によって利用価値ありとされたのも確かだろうが、やはり自ら組織に身を投じている。非合法活動に身を投じている。進んでユダヤ人と交わっている。ブルジョア一家の子女がそういう方向に走るという話はありがちではある(東アジア反日武装戦線“狼”とわたくし - 関内関外日記(跡地))が、それについてがんこなハマーシュタインは何も語らない。やれともやるなとも言わない。もちろん、将軍の家には陸軍の大物、ヒトラーに反感を持っている人たちも出入りする。いろいろの情報が入ってくる。それがソ連に筒抜けになる。それを黙認、していたのかどうか。
当時の右翼から見ると、がんこなハマーシュタインは親ソ派と見られていたという。というか、ヴェルサイユ条約下でドイツが新兵器を実験し、軍人を養成していたのはソ連であって……というのは最近のいろいろの独ソ本、あるいは『北欧空戦史』で読んで知っていたけれども、そういう理由でこっそりソ連におもむき、演習に参加したり、労農赤軍の幹部と交流したりしてるのだった。トハチェフスキー、ヴォロシーロフ。ヴォロシーロフは一家ごとソ連への亡命をすすめたりしている。
ドイツとソ連。ハマーシュタインは「ソ連との契約は悪魔との契約だ」という一方、「不安は世界観ではない」と述べている。後者が決め台詞らしいが、よくわからんね。
ロシアとドイツ。ドイツとロシア。
権力政治の表面下ではしかしずっと昔から、バランスとは別の、奥深いアンビバレンスが、対抗心が、希望が、ルサンチマンが増殖していた。教養階級はトルストイやドストエフスキーを読み、リルケはロシアへ巡礼に出かけた。この「第三のローマ」を多くのドイツ人は、冷たくて魂がなく資本主義的な西ヨーロッパの誘惑にたいする万能薬だと思っていた。その万能薬には、ひとつまみの反ユダヤ主義も含まれていたけれど。左翼にとっても、ロシアは自分たちのユートピアを投影するスクリーンだった。ナロードニキと1905年の革命に左翼は共感していた。
このあたりのドイツから見たロシア観みたいな感じというのは、新鮮だった。むろん、ロシアから見たドイツ観だって知っているわけもないのだが。ちなみに、ゲッベルスという人は1924年に、日記にこんなことを書き残していたという。
「ロシアよ、おまえはいつ目覚めるのか? 旧世界は、おまえに救ってもらうことを切望しているのだ! ロシアよ、お前は死にかかってる世界の希望なのだ。光ハ東方ヨリ! 精神においても、国家においても、商業においても、大政治においても、そうなのだ。ロシアの男たちよ、ユダヤのごろつきを追っ払い、ドイツにおまえたちの手を差しのべてくれ」
ゲッベルスという人は、だからナチス左派に分類されるのかしらん。ちなみに、ハマーシュタインは開戦時に「ソ連と戦争になったらかならず負けるだろう」と予言していたらしい。あと、ハマーシュタインは基本的に貴族的な人間であって、共産主義も嫌いだったようだ。もちろんヒトラーも。
ところで、がんこなハマーシュタインはどんな軍人だったのだろう。ソ連と戦った、これまたたぶんがんこなエーリヒ・フォン・マンシュタインは回顧録でこう述べているという。
ハマーシュタインは、私とおなじく、近衛第三歩兵連隊出身だった。同様にわれわれの連隊出身のシュライヒャー将軍とならんで、私が出会ったなかで、おそらくもっとも利口な人間のひとりだろう。『指示は、馬鹿な人間のためにある』は、ハマーシュタインが平均的な人間のことを念頭に置いて言った言葉だが、いかにもハマーシュタインらしい。戦時なら、ずば抜けた指揮官だっただろう。平時の陸軍最高司令官としては、小さな仕事も重要なのだという感覚が欠けていた。なにしろ『勤勉』にたいしては『そういう特性は、平均的な人間にはなくてはならんものだ』と気の毒がっていたのだ。
オフィスワークしか知らない人には、ともかく『怠け者』でしかない。一方で、第一次世界大戦から知ってる人間からすると、錯綜した情況を瞬時にリアルに把握し、クリアな指示を出せる『天才』というわけだ。
というわけで、ハマーシュタインのものとされる、どっかで聞いたことのあるような格言も出てくる。あるとき、どのような視点で部下の将校を判断するのかと聞かれ、こう答えたという。
「私はね、部下を4つのタイプに分けるんだ。利口な将校、勤勉な将校、馬鹿な将校、怠け者の将校、にね。たいていの場合、ふたつのタイプが組み合わさっている。まず、利口で勤勉ななやつ。これは参謀本部に必要だ。つぎは、馬鹿で怠け者。こいつが、どんな軍隊にも9割いて、決まりきった仕事にむいている。利口で怠け者というのが、トップのリーダーとして仕事をする資格がある。むずかしい決定をするとき、クリアな精神と強い神経をもっているからね。用心しなきゃならんのが、馬鹿で勤勉なやつだ。責任のある仕事を任せてはならない。どう転んでも災いしか引き起こさないだろうから」
ちなみに、この格言は英訳され、イギリス陸海空軍の司令部、罰金バッキンガムのラティマー卿の屋敷とやらに飾られているのを、アメリカの将校が1942年10月に見て驚いたらしい。訳者によると、参謀総長の大先輩大モルトケの発言を下敷きにしているはずだ、とのことだ。
いずれにせよ、だいたいわれわれは馬鹿で怠け者だ。セオドア・スタージョンだってそう言ってる。
さて、この昼行灯のようなというとなんだけれども、狩猟ばかりしている将軍は、反ヒトラー、反ナチスの態度をあまり隠そうともしない。それなのに、なぜか戦争が始まると現役復帰を要請され、西部A集団最高司令になったりしている。このあたりはよくわからんという。その後は「東部最高司令官」のポストが予定されていたという。結局は、すぐにまた引退させられるのだが。
……もしも、ヒトラーがハマーシュタインの守備領域を訪問したら。これは歴史のifだろう。ただし、がんこで怠惰なハマーシュタインは、早いうちに、ヒトラーに対して国防軍のクーデターを行いはしなかった。内戦になるこをおそれたのかもしれない。明晰な頭脳が、そう判断したのかもしれない。なんともわからない。ただ、トム・クルーズのように派手にはやらなかった。ましてや、ブラッド・ピットほどには。
まあ、こんなところにしておくか。まあしかし、この本、これについては、なかなかなんというか、複雑な本ではある。歴史書でもないし、小説でもない。死者との対話、なんていう架空インタビューも出てくる。一方で、ソ連や旧東ドイツのアルヒーフ、関係者の回顧録もさかんに引用されている(役人は本当によく文書を残す)。歴史という語りにくいものに対する苦闘といってはなんだけれども、そういうアプローチ自体で「簡単なもんじゃねえんだな」って伝えてくれるような感じがする(一方で、散漫なところもいなめず、「これはどの娘だっけ?」とか最後まで混乱があったりして)。
そういえば、前にこんなものを書いた。
マルティン・ニーメラーの言葉についてだ。「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった」っていうけど、ドイツ共産党ってナチと協力して社会民主党を攻撃したりしてんじゃん、みたいな。さらにいえば、本書でかなりの分量で描かれている(調べあげられている)、ソ連での粛清の話、そして、ドイツ共産党での内ゲバの話。ここのところのおれの読書傾向はドストエフスキーの『悪霊』あたりからというか、なんか革命をめぐるそういうのと、戦史系の2系列あんだけど(たぶん)、それが結合した感じもあったな。まあ、本書で戦争そのものはほとんど出てこないけど。
むろん、ニーメラーの箴言は箴言として価値のあるもんだとは思う。モルトケかハマーシュタインのわりと傲慢な人間分類くらいには。一方で、歴史は甘くないぜって、やっぱりそう思うんだ、あらためて。ちなみに、本書でも二箇所ほどニーメラーについての言及がある。ヒムラーが戦後価値のある人質として利用するために、反乱軍人の家族である貴族や、占領国の王族、首相、摂政、将軍なんかを「想像上のアルプス要塞」があるチロルへ連行するなかに、ハマーシュタインの家族とニーメラーもいたのだった。
あと、エンツェンスベルガーについて書きたいことがあるけど、それはまた次の本で。おしまい。
☆彡
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