図書館の本からのメッセージ……多少井ぜきの競馬もね。

☆まあ云ってみりあ、天才的
以上の天才の
為せる代物、書物だよ、
多少井ぜきの競馬も。超の〜。
☆十分、分って書いているのか、
作者自身
そのつもりで
落書してるのだろうがね、
分からぬから書いている
と云ってるなら、
しょせんか何かか
理路的きちがい、のたわ言
か、一種の

言葉からの触手

言葉からの触手

 図書館で借りた本に書き込みがあるとイラっとする。たまに、「どうしてこんな初歩的な誤植が!」というところにバシッと赤が入っていると、入れた奴の気持がわからんでもない、なんてこともあるが、やっぱり駄目だ。あと、抜いたひげを一本一本貼りつけたやつは論外、というか、あの使徒みたいなオブジェが野毛の坂を転がって行った先をたまたま歩いててぶっ刺さって死ねばいいのに。
 ただ、古本もそうだけれども、間になにか挟まっているのは許せる。むしろ歓迎したい。本とまったく関係なくてもいい。古ければ古いほどいい。当時の小さなチラシでもいいし、手書きのメモでも名刺でもなんでもいい。
 さて、上に引用したのは、吉本隆明『言葉からの触手』の後ろに挟まっていた紙である。図書館の書庫から出してもらって出てきた本だ。図書カードのようなものもあるが、そちらはなにも書かれていなかった。よくわからないが、本の貸し借りがコンピュータで制御される以前の仕組みの一端、そこに書き込まれた……読書感想文……か?
 「多少井ぜきの競馬も」とあるが、おそらくは井崎脩五郎のことか? 縦書きを入れた位置はおれの解釈でいいのか? ☆なのか「不」なのか? 謎が多い。しかし、ともかくこれを書いた人間は『言葉からの触手』を読み、こう思ったんだろう。そしてどうも……まったくおれがグダグダ感想や思いつきを書くよりも、これが『言葉からの触手』を言い当てているじゃねえかという、そういう思いもないでもない。なにせわざわざこの本を借りて読んだ人間の書いたことだ。おれは学の背骨がないから、自信たっぷりにこう書かれると、気持ちも考えもぬるりとだらしなくなって、「しょせんは何か超のつく天才の書いたものを読んだ気になっているだけかもしれない。しかも、その難解な内容は理路的きちがいのたわ言に過ぎぬのかもしれない」などと丸められてしまうのである。
 しかしまあ、こういうふうに、誰が誰あてになんのために書いたかもわからないものが、一冊の本を媒介にして届く、というのは悪くない。と、そんなことをやってるこじゃれた古本屋が実際あったりしそうなものだが、まあおれは偶然のほうがいいね。とはいえ、返却された本の間に挟まっているなにかを、図書館でどうしているのかわからないが、こんなのはなくなっていく偶然には違いあるまい。ま、今でもたまに貸出のレシートが挟まってて、「この組み合わせは!」みたいな体験もするんだけれども。
 それで、将来的にはたぶん電子書籍みたいになっていったら、書き込みなんてもんもできなくなって、ある意味では万々歳。こういうのもなくなる。……いや、むしろ、PDFの注釈ツールみたいに借りたやつがバシバシコメント入れてって、それの可視、不可視のオン・オフなんてのできるようになりゃ、それはそれで面白いかもしれない(ニコニコ書籍?)。というか、こじゃれたネット・サービスで他人とブックマークを共有、みたいなもんが実際にあったりしそうなものだが、まあおれはまだ紙の本しか読む気しないし、よう知らん。
 ま、なんにせよ、ネットでその本の感想を探すとか、そういうのとは全然違うんだよ。なんかわからんけどさ。と、まあ本当は感想文に書こうとしてて画像アップまでして忘れてたことでエントリーひとつ、と。

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……電子書籍というか、ARタグ? そうだ、『ロボティクス・ノーツ』のタグみたいなやつ。拡張現実で紙の本にはてなブックマーク。街に、建物に、なんにでもブクマ。いいじゃないか、やれよ、はてな。いや、もうそういうサービスありますとか、失敗してますとか、そんなんあったかなかったか知らんけどさ。しかし、そのためにはいちいちスマホの画面越しとかじゃやってらんない。まずはスカウターみたいなメガネ? いや、人間の電脳化だ。電脳化して紙の本読む気になるかどうかは、なってみなきゃわからんよ。