依存に依存したくなる所存


 依存に依存したくなる所存。信仰と言い換えてもいい。芯となる心というものがない。いたずらに薄っぺらいロゼットを展開するばかりで高みに登れぬ。かといって、たいして広がるものでもなく、結局はじゃまものあつかいされて、踏まれてちぎれるか、引っこ抜かれてお終いだ。
 そんな高みの話はしていない。もっと軽いもの、身近なもの、即物的なもの。たとえば酒、たとえば煙草、たとえば博打。おれはいずれをも経験して、それなりにやってきたが、それなりにやってきた程度であって、アルコール依存症まで飲まない、校正紙に煙草の臭いが染み込むほど吸わない、生活に困り借金するほど賭けない。いや、飲めない、吸えない、賭けられない。
 なにかのリミッターが働いている。かなり強烈なリミッターだ。強迫的だといえるかもしれない。自分でもなにかに依存する性格だと思う一方、それが反対側から作用して極端に押さえつける。それでもいくらかは飲んだり賭けたりしてきたのは、それだけ依存心もあるということだろう。
 心の医者はおれの経歴、すなわち慶應義塾大学中退を見て即座に「中退ってのは大麻?」と訊いてきた。初診のときだ。どうもそう見えるようだ。合法的な薬物への依存、というのもあるに違いない。だからといって、多少は多く飲んだりすることはあっても、オーヴァードーズでどうこうということはない。一度だけ薬を飲み過ぎて死にかけたのは、薬局で売っているカフェイン錠剤を目覚ましのためにたくさん飲んだときくらいだ。「たかが薬局で売っているカフェイン」と侮っていた。あれには気をつけたほうがいい。
 さて、このごろのおれといえば、人がいらなくなった試供品の煙草を「じゃあください」とか言ってちまちま吸ったり、じつはちまちま飲んでいた安い泡盛に飽いてシングルモルトウィスキーを買ったり、ひさびさに単元未満株を買ったり売ったり、馬券を買ったり払い戻されなかったり、依存性のあるものへの指向を感じさせる、そんな行動をとっている。
 ひとつには、痩せたせいで冬に弱くなり、冬季にそうとうに弱まっていた心が楽になってきたせいなのかもしれない。あるいは、双極性障害用の薬を食べている身として小さな躁転状態に入っているのかもしれない。いずれにせよ、おれには強烈な自制、反動があって、良くも悪くもすごいことになることなどありはしない。
 できるものなら、本当に躁転してみたいような気にすらなっている。だが、おれはやや病気の気があるていどのものであって、処方量など調べても普通だし、医者はある種の薬の投薬をやめたがっている。まあ、どうでもいい。それにしてもジプレキサは高い。
 しかし、躁転という字面は見れば見るほどあれを思い出すな。あれだよ、あれ。大きな輪っかに人が大の字になってつかまって、ごろごろ転がるやつだ。あれはなんといったかな? おっと、もうこんな時間か。帰宅のアラートだ。アパートに帰るのが面倒、だからといって会社に泊まり込むこともない。帰って、歯を磨いて寝る。起きて会社に行く。少しくらいは遅刻しても許されるだろう。というか、年度末、もう十日くらい巻き戻してもらえないか。ちょっとばかし、いや、なんだ、時間がない。時間がないのに、なにをやってんだろ、おれは。いや、これも依存か。書かずにはいられない、文字をくるくるくるくる回転させて、くるくるくるのパーだ、まったくさ。