(人生の)秋の準備

今週のお題「秋の準備」
 青春・朱夏・白秋・玄冬でワンセットということを最近知った。青春以外は人生の季節ことばとして使わないようだが、当てはめようと思えば当てはまるかもしれない。わかりやすいところからいけば、玄冬は人生の末期、老後だろう。玄冬という字面は「糸冬」にも似ているので間違いない。
 と、ここまではよいが、青春・朱夏・白秋の区切りというのはよくわからない。いちばんイメージしやすいのは青春か。一番若い。若いといっても赤ん坊や園児というのではちと早い。いわゆる成長して性徴がどうこうの思春期から……どのくらいか。ヤングアットハート(母ニフティハート)などと言っていつまでも青春だ、死ぬまでが青春だ、というのもちと醜悪さがある。醜悪は言いすぎかもしれないが、そういう人はそういう人でなにか圧倒的でなくてはならない。おれに「いいおじいさん」タグを付ける余地を与えないくらいでなくてはならない。まあ、例外だ。
 突然だが、24歳まで、ということでどうだろうか、青春は。だいたい大学を出たくらいで、そこからバリバリ働きはじめるのが朱夏か。ブラック企業でバリバリ働けば玄夏やもしれないが。青春→玄夏→糸冬。今の時代、生き方の多様性もしくはモデルケースの破壊によって、単純に分けられるもんじゃないのだろうけれど。
 まあ、なにか青春の後の朱い夏があって、白秋というものがくる。突然だが、35歳から、ということでどうだろうか。……いや、まだ働き盛りの感がある。40歳? 50歳? ある程度落ち着いた役職ないし窓際につき(←昭和脳&大企業脳←おれは吹けば吹っ飛ぶ零細企業勤めなのに)、定年を待つ(←昭和脳以下略)ような時期だろうか。
 ただおれ自身の実感からすると、もし来年35歳を迎えることができれば白秋でいいなという気がする。青春の性徴もはるか遠く、辛いものを食べた時の整腸(銀様のファンなので乳酸菌は欠かさない)が気になる。とすると、おれの朱夏はいつ頃だったろうか。大学を中退してニートになり、ニートでいられなくなった時点で青春は終わったかもしれない。青春らしいことを経験してきたかといえばあやしいものだが。(青春?)がいいところだろう。その後が朱夏だ。その日の食い物のために労働基準もなにもなく、発展途上国並の賃金でひたすらに漫然と働いていた(←グローバリズムの先駆けやね)10年くらい。なにも蓄えられなかった10年くらい。それがいい経験だとかそこに価値があるとかいうこともまったくない10年くらい。朱夏があるとすればそこにあたる。あまりにも記憶がない朱夏。なにもしなかった。すごいことだ。
 そして、気づいたら白秋を目の前にして、人生の経験も仕事のスキルも口座の蓄えもない人間一人できあがっていた。おまけに脳みそはポンコツで非定型抗精神病薬抗不安薬睡眠導入剤をぶち込みつづけないと人を殺すか自分を殺す。これが、秋の準備をしようにも今さらどうしたらいいというのか。今さら、ほんとうに、どこから何を?
 (青春?)→朱夏→糸冬。
 今日の晩にでもダンプカーに轢かれて死んだりはしないものだろうか。わりと後悔はしない。