- 作者: 渡辺京二
- 出版社/メーカー: 葦書房
- 発売日: 1999/10
- メディア: ハードカバー
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私は現代文明批判の第一歩は、今日史上のものとされているこの自由なるもの、快適さなるものが、人間の生の意味を徹底的に喪失させる、いわば究極のニヒリズムである点にあると考える。
「いま何が問われているのか」
『逝きし日の面影』を読み、渡辺京二だよな、と思って読んだ。読んだが、おれはパステルナークもソルジェニーツィンもイヴァン・イリイチもろくに読んでいないのだから、まあそのあたりはしょうがない。今後読むか。そうだ、評論されている対象を知らないでその評論文を読むというのはどういうことなのだろうか。それってありなのだろうか。そこに評論者の言いたいことを読み取れば、それはそれでありなのだろうか。よくわからない。
脱構築論者はそういう近代が創りだした物語の解体をめざしておりますので、自分たちの営みをポストモダンと称するわけですけれども、彼らの言説の行きつく先を見ますと、何のことはありません、おそろしく単純化された自由の擁護、個人の権利の主張、国家的諸制度に対する市民主義的抵抗、フェミニズム・マイノリティ擁護・コスモポリタニズムへの傾斜、一切の規範・拘束への嫌悪等々において、彼らは実に実直にして素朴な近代的価値の信奉者であることが明白になってまいります。自己決定権という彼らの滑稽なスローガンは、何ものにも拘束されざる自由にして全能の個人という、近代の透明かつ単純な原子論的人間像の戯画にほかなりますまい。
「ポストモダンの行方」
同じように、おれは「ポストモダン」と言われても、そもそも「モダン」を知らぬ。「モダン」を知らぬうえに、その「モダン」を成り立たせる「プレモダン」もわからぬ。それがポストモダン批評を読んでどうなろうか。そして、そもそも、今、この2014年の10月はいつなのか、よくわからない。
アジアにおいて、帝王権力がつねに神聖化され、その統治が伝統的性格を帯びて来たのは、周知のことである。しかしその帝王権力は、出自をたどれば山賊野盗の類いなのがつねであって、要するに郷村の伝統的生活秩序におさまらぬ連中が、徒党をなして上方へ疎外されたのである。東洋の専制権力はこういう奇妙な逆説を刻印されている。
「非行としての政治」
そういうわけで、こういうアジアの段階を読んでも「ほう」と思うばかりで思考に立体感がないのが正直なところだ。なにもないよりもなにか読んだ方がマシだろうが、これを覚えていられようか、なにかに応用できようか、おれにはわからぬ。
人間の生態を考えてみると、人の世話を焼かずにおれぬ奴と、囲りのことは一向気にならぬ奴とに、二分されるように思われる。どんな小社会をとっても、そこに人の交わりの世界が開けていれば、その交わりの秩序がたえず気になり、それを整序せねば気のすまぬ人間と、そういう全体の秩序は人まかせにして、むしろ交わりから遁れたがっている人間とがいる。小学校のクラスからしてそうだ。
「大衆の起源」
とはいえ、このくらい身近に思える話題になると、ああ、おれは後者なのだろうな、などと思えてくる。小学校のクラスを思い返してもそのように思える。そして、この「大衆の起源」では井上ひさしの『吉里吉里人』が採り上げられている。おれは大昔にそれを読んだ。そして、なんと読後感の悪い話を読んでしまったのだろうと思った。そこそこ長い話だったと思うし、それを読むように強制されたわけではなかったのだから、それなりに途中は楽しかったろうに、なんとも嫌な気持ちが残った。それ以後、井上ひさしの本を読んだことはない。似たように嫌いな本は『かもめのジョナサン』である。
井上はこの小説で、エリートや専門家の支配は、その外見のものさしにかかわらず、その辺で草を取っている田吾作でも、その気になれば立派に代行できるといっている。このことは、ある前提を充たせば八、九分どおり正しい。だが、その場合、彼が見ていない、あるいは見ようと欲していないことがひとつある。むろん彼は、そのことを内心承知していると思う。
それは、田吾作がどんなに小であれクニと名のつくものの管理・運営にたずさわるとき、田吾作ではあり続けることはできないということである。
「大衆の起源」
おれはここで指摘されている、井上があえて見ようとしなかった、書こうとしなかったことを敏感に察知したのではなかろうか。いや、昔のことなので断言はできないが、「大衆の起源」を読んでいてすんなりと飲み込めるなにかがあったのだ。
大衆が統治者やエリートより、無垢で正直で人間的であるように見えるのは、彼らがそのありようから権力や統治を疎外しているからである。あたかも人ごとのようにそっぽを向いて、社会の管理・運営に参画しないからである。そういう逃亡もしくは拒否の位相においてのみ、もし美しいとすれば彼らは美しくありえているのである。
吉里吉里国のように、大衆による、大衆のための、大衆の政治が実現されたとしても、その政治からすらも逃亡したいもの、逃亡しないまでももっとも遠い位相にとどまっていたいものは絶対に存在する。吉里吉里国では、ほかのことは許されても(そこは人間の他愛もない欲望に最大限、寛容な国であるらしい)、国の運営・管理に参画しないということだけは絶対許されないはずだ。なぜなら、それはこの国の存立原理で、その点を譲れば、治者対被治者、為政者対大衆の構図が再生産されてしまうからだ。つまりこの国は、つねに挙国体制でなければならない。はみ出しは許されない。吉里吉里国の少年少女が、文化大革命時の紅衛兵、あるいは軍国日本の少国民をほうふつさせるものに描かれたのは意味あることである。作者はこの暗合に気づいているのだろうか。気づいていれば、これはアイロニーでなければなかった。
「大衆の起源」
おれの『吉里吉里人』の読後感の悪さというのは、落ちがなかったというものだった。落ちという曖昧だが、描かれていたものがひっくり返って……むしろ、ボケとツッコミといったほうがいいだろうか。なにかこれはボケっぱなしじゃないの、と思ったのだ。れが『吉里吉里人』を読んだのは20年も前のことだが、その感触だけは残ってる。大きな違和感だった。
私などの大衆のイメージは、根本的に離群という点にある。運営・管理には異議を唱えないから、社会からそっぽを向きたがっている俺の性癖は放っといてくれ、というのが大衆であると考える。こういう離群的指向は、悪名高き東洋的専制支配の温床として、社会改良家や説教師から非難の礫を浴びて来たし、これからも浴びて行かねばならぬだろう。しかし、社会からそっぽを向きたがる指向が、そういう社会改良家や説教師の非難をもってしてもいかんともしがたいのは、人が生きているということの全円周は社会の全円周より大きくて、その逆ではないからである。
「大衆の起源」
そしておれは、渡辺京二のこの考えになんらかの納得を感じるのだ。この極端までに押し広げられた個人主義的な……。あるいは吉本隆明を読んでいても感じるような。まったく違うかもしれないが、しかし、本来人間なんてのはそんなもんだという。そっから出発しねえと話にならねえみたいな、そういう「感じ」はおれの中にある。
世界は決定的にテクノロジーに支えられた自由で高度な消費的享楽生活を指向している。この指向をみたしえない政治体制は必然的に淘汰される。東欧の新事態はこの一事を私たちに確認させたのである。あくなき消費生活を可能にするため、経済システムはより合理的であらねばならない。社会主義を敗北させたのは、この効率的経済という化け物である。だとすれば、自由主義論客は何の勝利を謳歌しているのだろう。彼らは、自分たちが地球まるごとこの化け物に呑み込まれる日の前祝いをしているのだ。
「社会主義は何に敗れたか」
さて、経済の話もある。渡辺京二は「『経済』を超克する途こそ私たちの唯一絶対の課題」と言い切る。資本主義か社会主義かといったレベルじゃねえんだ、と。「人は何のためにコスモスに生を享けて来たのか」という古い問い。これは今でも有効であると信じたい。そしてたとえば中東で起きている現在進行形のことは、まだその問が有効であることの証であるようにも思えるが、どうだろうか。
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