言葉とは無縁でいられない 上原善広『私家版差別語辞典』を読む

私家版 差別語辞典 (新潮選書)

私家版 差別語辞典 (新潮選書)

……差別に優劣をつけるのは人間なんだ」
 こう私に語ったのは、かつて出版した漫画(劇画)が部落解放同盟によって糾弾され、絶版に追い込まれた劇画作家・平田弘史だった。

 「路地」出身の作者による、文字通りの「差別語辞典」である。決して地上波のテレビやラジオでは発せられることのない、あるいは新聞に書かれることのない言葉が並んでいる。とはいえ、それらのすべてが差別語として封印されてよいものであるのかどうか。著者は「言葉狩り」という言葉を用いて、行き過ぎた「差別語」に意見したりもする。それも「路地」出身ゆえにできることかもしれないとも思うが、そう思うおれも人に、言葉に「優劣をつけ」ているのかもしれないと感じないではない。ある用語を漢字で書くか、カタカナで書くか、そこにその言葉の歴史があり、それについて自分が引き受けるべき考えというものがあり、意識的、無意識的、いずれにせよ、言葉と差別について無縁ではいられない。めんどうな話だと思うが、人間は面倒だし、社会は面倒だし、言葉は面倒なのだ。おれはこの本を読んで、あらためてそう感じた。
 して、内容についていくらか新しい知見を得られた。たとえば、「士農工商」などというものは、最近の教科書には載っていないそうである。それは言葉狩りではなく、新しい研究結果として、そこまで身分制度が固定されてなかったんじゃねえの、というところから来ているらしい。おれは昭和の子であって、そんなことは知らなかった。いずれ「士農工商」も差別語として忌避されるか、単なる死語になるのかもしれない。もう死語なのかもしれない。
 あるいは、今まで読んできた上原善広の本にも出てきたが、「長吏」や「番太」だろうか。現代でいえば警察のような存在が被差別の人間によってなされてきた。あるいは、神社に仕えながらも被差別の存在であった人々があった。その表裏一体というものが不思議に思える。そして、浅草弾左衛門という大きな存在にも興味を覚える。そんなところである。まあ、それらは歴史に対する興味、社会制度に対する興味ということにもなろうか。いずれにせよ、社会には差別がある。

 人はみな、何らかの差別にさらされている。べつに路地でなくても学歴、住処、所得、容姿など、何らかの差別にさらされているものだ。
 しかし、だからこそ差別されることを恐れてはいけないし、差別されて傷つくことを恐れてはいけない。差別を押し殺すことによって生じるのは、ご立派な建前論の横行と、よりくぐもって陰湿になる差別、そして卑劣な言いかえのみである。

 「差別されることを恐れてはいけない」。なんと力強いのか。そして、なんといっていいのだろうか、人間社会の業もあれば展望もあるとでも言えばいいのだろうか。なんとも言えないが、まあ読んでみればいいさ。おしまい。

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