- 作者: イヴァンイリイチ,渡辺京二,渡辺梨佐
- 出版社/メーカー: 日本エディタースクール出版部
- 発売日: 1989/03
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (9件) を見る
と、ここまで関係ない話をすればお察しだろうが、おれはこの「コンヴィヴィアリティ」が苦手だ。「スタニスラフスキー」ほどじゃないが、目にするたびに「こんヴぃヴぃっヴぃヴぃりあ、あり、りあり、てぃてててぃ?」と頭のなかがぐしゃぐしゃになる。こんな単語はスタニスラフスキー以外で初めてだ。そういうわけで、読むのに非常に難儀した。とはいえ、翻訳者のはからい(出版社は「コンヴィヴィアリティ」のままでよいとしたが、「昔気質の私としては、ふつうの読者に言語そのままで読ませるというのは許されぬことに思えて仕方ない」)で、「自立共生」(最初変換したとき「自立矯正」と出てきた)と訳されている。そこにルビで「コンヴィヴィアリティ」とつく。多分に救われたと言わざるをえない。
と、この「昔気質」がどなたかと言えば、渡辺京二(とその娘さん)である。本業でも副業でもない翻訳に至った経緯をあとがきから書く。本書は『自由の奪回』というタイトルで1979年に出版されていた(原著は1973年)。しかし……。
翻訳本がわかりにくいのは然るべき理由があってそうなっているので、少々のわかりにくさや読みづらさは初手から覚悟している。ところがわからぬ本をわからぬままに読みあげるのを得意としているこのわたしが、三十ページも行かぬうちに挫折した。とにかく、何を言っているのかがわからないのだ。もちろん、イリイチが狂人でないかぎり、訳に問題があるに違いない。
そして、原本にあたってみた渡辺先生。
原本で読んでみると、世に行われている翻訳にこういうしろものが混じっているとは、まさか想像もしていなかった。英語がわからないのに訳ができるはずもない。私は正直に疑問をもった。自分が読めもしない本をなぜ訳すのだろう。出版界ではよほどの理由がなければ、既訳のある書物の別訳を出版することはない。だから、わけのわからない訳本を出すのはよくよく罪深い行為なのだ。
と。
と、ここまで「訳者あとがき」の話ばかりしていることからご察しのように、おれはこの歯切れのいい渡辺京二訳でも、正直なところ「何を言っているのかわからない」と感じざるをえなかった。いくら訳がひどくても「狂人」レベルの文章に行ってしまうものが、たやすく読めるはずもないのである。むろん、おれの知性によるところが大きい。とはいえ渡辺先生はこうもおっしゃる。
……私の考えでは、精緻で体系的なイリイチ解釈が学会レベルの研究として進展することはけっこうだけれど、イリイチという思想家はもう少し自由かつルーズに読んだほうがみのりが多いようだ。これはイリイチに限らぬことで、私はもう、かつてのマルクス学みたいなのはごめんなのである。マルクスの一手販売元みたいのが方々にいて、たがいに「正しい」解釈を競い合ったなれの果てを、私たちはよく承知している。
ルーズでいいのか。いいということにして、気になったところを適当にメモしておく。気になったところは多々あるのだ。だから、引用しつつ前後をも読んだ。二度見した、という感じ。
まず、こ、コンヴィヴィアリティってなんだろ?
すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代りをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局認めなければならない。教育が人々を人工的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。政治が、エネルギーや情報の社会への平等な投入に関わるというよりむしろ、最大限の産業産出物の分配に関わるのが当然とされるのも、この限界内のことにすぎない。いったんこういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性との間の三者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にでなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は“自立共生的"(コンヴィヴィアル)と呼びたい。
「はじめに」
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味を持たせようと思う。
「II 自立共生的な再構築」
……はあ。校舎化? 教育? 強いられているんだ? そういえば『脱学校の社会』という本もあるらしいが。「はじめに」の最初の方に戻る。私らは六十年代後半には次のことを明らかにしたと言う。
1 強制的な学校化によって万人に普遍的教育を与えるというのは、とうていできない相談である。
2 大衆教育の生産と市場商品化という代案は、学年編制の義務的学校よりも技術的には実行可能だが、倫理的にはよりたえがたいものである。こういう新しい教育的配置は、富める国においても貧しい国においても、伝統的な学校制度にいまやとって替ろうとしている。それは産業主義的経済における就業者と消費者を条件づけするうえで、潜在的により効果がある。それゆえに、今日の社会を管理するうえでより魅力的であり、国民にとっても誘惑的であり、気がつかぬうちに基本的な諸価値に破壊的な影響を及ぼす。
3 産業成長に教育的限界を設定しうるものがあるとすれば、それは相互学習と批判的な人格的交流が高いレベルに達した社会でなければならない。
「はじめに」
……産業主義的? 冒頭に戻る。
これから何年かのあいだ、私は産業主義時代の終焉というテーマと取り組んで行くつもりだ。
「はじめに」
つまりはこう、産業主義ちゅうもんがあって、そいつは世界を変化させてしまった。あるいは、変化させてしまう。そいつはよくなさ気な感じだから、産業主義社会は新たな選択をしなさい、あるいは、いまだ産業主義時代に入ってないところも、そっちを選びなさいと、そんなところだろうか。ルーズだからそれでいいのだ。
大量生産の限度なき成長が環境を敵対的なものにし、社会の成員が固有の能力を自由に行使することをできなくさせ、人々をたがいに切り離して人工的な殻に閉じ込め、極端な社会の分極化と分裂的な専門化を促進することで、、共同体の組織を掘り崩すとき、あるいは、ガンのように悪性の加速化が、社会的変化に、今日の行動の公的な指針としての法的文化的政治的な慣行を否認するような速度を強いるとき、社会は破壊される。
「はじめに」
「分裂的な専門化」というのは、あとから出てくる医療についての話だろうな。うん。あとからの話もしてしまう。ルーズだからいいのだ。あるいは加速化の話なんてのは極端なところまで行ってて。
通勤車輸送がそのシステムのどこであろうと自転車が達しうる速度を大きくこえた速度を許容すると、それはマイナスの見返りをもたらす。そのシステムのどこかで自転車の速度の関門がいったん突破されると、交通産業のために費やされる一人当りの月間時間の総計が増加する。
「III 多元的な均衡」
自転車脳の恐怖?
……「根元的独占」という言葉で私が意味するものは、ある銘柄が支配的になることではなく、あるタイプの製品が支配的になることである。ひとつの産業の生産過程がさしせまった必要をみたす行為に対して排他的な支配を及ぼし、産業的でない活動を競争から締めだすとき、私はそれを根元的独占と呼ぶ。
車はこのようにして交通を独占する力をもっている。車は自分の姿にあわせて都市をかたちづくることができる――実際にロサンジェルスで徒歩や自転車での移動を締めだしたように。それはタイの河川交通をお払い箱にすることができる。フォードよりシボレーに乗る人が多いということが根元的独占なのではなくて、自動車による交通が歩く人の権利を削りとるということが根元的独占なのである。
「III 多元的な均衡」
学校も、現代の医療もこの「根元的独占」があるという。で、この「根元的独占」は2、なのである。「世界のあらゆる人々」を脅かしている5つの側面の2。ほかは以下のとおりだ。
5つの側面
1)過剰成長が、人間が進化してきた環境の基本的な物質的構造に対する人間の権利を脅かしている。
環境問題、資源の問題。科学技術と人間の問題。諸価値を技術的に変えること……を変えること、無力化すること。「私たちだけが、人間だけが目的をもち人間だけが目的をめざして仕事をすることができるということを再認識しないかぎり、生態学的均衡を再建することはできない。機械はただ、人間を、機械の破壊的な進歩における無能な協力者という役割におとしめる作用を、無慈悲にいとなむだけである。」
2)産業化が自立共生的な仕事をする権利を脅かしている。
前述、「根元的独占」。「独占が物理的世界の形状だけでなく、行動と想像力の射程をも凍結させてしまっているとき、独占をとり除くのは難しい。根元的独占はもう遅すぎるときになって気づかれるのがふつうなのである。」。3)の学びのバランスが傾き、4)の転覆の結果がその盲目の原因である。
3)人間を新しい環境にあわせて過剰に計画化(プログラミング)することが、創造的な想像力を麻痺させてしまう。
教育の商品化、希少化、根元的独占化。「商品によって圧倒された人間は無能力になり、激怒にかられて人を殺すか、自分が死ぬかのどちらかである。学習のバランスの堕落は人々を道具の操り人形にしてしまう」。避妊。教えてもらうのではなく、学ぶということ。「産出は増大させつつコストは低下する幻想を抱かせるように、全面的に構造づけられた世界にありながら、よろこびにみちた禁欲を教えこもうというのは不可能事に属する」。人口抑制について。現代日本一国として見た場合はどうなのか。人類自身がその規模に押しつぶされないためには、自立共生的なやりかたが必要。範例。
4)生産力の新しい水準が政治参加の権利を脅かしている。
分極化。「今日の道具の構成は社会を、人工と豊かさの水準の両面における成長に駆り立てている。この成長は特権スペクトルの正反対の両端で生じている。特権をもたぬものは数の面で成長するし、一方、既得権益のもちぬしは豊かさの面で成長する。特権をもたぬものはこうして欲求不満を高めるだけの要求を強め、一方富めるものは自分のものときめこんだ権利や必要物を防衛する。飢えと無能感のために、貧しいものは急激な産業化を要求するようになり、増大する贅沢を防衛するために、富めるものはいっそう狂気じみた生産へ駆りたてられる。権力は分極化し、欲求不満は一般化する。そして、より低い豊かさにもとづいてより幸せになる道を選ぶという別な選択は、社会的視野の盲点におしやられてしまう」。少数の手に集中する特権。「道具が大きなものになるにつれて、操作する能力をもつものの数は減少する」。少数弱者といえども、成長志向の社会の中で自分の取り分を増やすために行動する以上、結果的に成員の大部分がより劣等感を抱くだけに終わる。シャドウ・ワーク? もし女性が男によって占有されている巨大な道具に対する平等な権利を要求するのでなく、あらゆる人々にとって平等に創造的な仕事を獲得するのなら、成長はストップできるだろう。
5)古いものを強制的に廃してしまうことが、言語や神話や道徳や審判における洗礼の源泉である伝統を生かす権利を脅かしている。
廃用化。新しいものを使うことが特権であるということ。根元的独占のなかで生じる変化の結果。「よりよいものを求める競争に巻きこまれた社会では、変化に対して限界を課すことは脅威的経験とみなされる」。「自立共生的な再構築が求めるのは、強制的な速度の変化に制限を設けること」。一定の速度をこえた変化は法を無意味化する。産業の要求によって人間が形づくられる。人間の道具化。
6)巧みに仕組まれてはいるが強制的な満足のおしつけが生み出した広汎な欲求不満。
5つのカテゴリーとは別に、より微妙な脅威を生み出す。社会は5つのカテゴリーのひとつだけを基準に選んでも十分ではない。諸均衡のすべてが保たれなくてはならない。最後に、脅かされている個人的なコストと見返りのバランス。手段と目的のバランス。
さらに、これに加えて「欲求不満」という微妙な要素が6つ目として出てきたが、割愛。
― ― ― ― ― ―
この本が最初に出たのが1973年。40年前のことだ。変わったこともある、同じこともある。むしろ同じことの方が覆いような気もする。もちろん、毛沢東が医療の面でうまくやったかどうか、あるいは人口増加や環境問題で筆者が危惧したほどのことが起きたかどうかというところもある。だが、根本のところでピシっと撃ち抜いているところがあるんじゃねえの、という気にはなる。現代が産業主義社会と呼べるのかどうかわからんが、今まさにの問題について述べられているような気にもなる。おれはルーズにそう感じた。
あとは「道具」についてと「回復」についてあたりを書きたいが、長くなったので、続く(かどうか)。