イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク 生活のあり方を問う』を読む

シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)

シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)

 『こんヴぃヴぃヴぃヴぃヴぁありりありえてぃのための道具』に続いて、『シャドウ・ワーク』に手を染めた。おれは無学祖元でもない単なる無学なので、イリイチが右か左かもわからないのに読んだ。この翻訳も渡辺京二が盛大にディスってたものかどうかもわからないが、まあともかく目を通した。それだけのことである。いくつか気になったところをメモしておいて、来世の参考にする。あと、「シャドウ・ワーク」ってスタンドの攻撃名みたいだよね。ピンチのときに機転を利かせて主人公を助けそう。あるいはアレッシー。おれは利口じゃないねえ。

……私は、、正規の経済学の諸概念からも、また生活文化の研究で人類学が用いる諸概念からすり抜けてしまう影の特徴を記述してみたい。

 それが貨幣化される、まあなんだ、前の本にあったな、産業主義社会の、なんだ、賃労働みたいなやつだ。で、その一方で生まれたのが、それ自体が、賃金労働と見做されない、家事の領域、主婦の家事労働そういう、シャドウ・ワークだ。

……二つの領域はともに環境にそなわる利用上の大切な価値を劣化させる。つまり、双方とも人間生活の自立と自存(サブシステンス)の基盤を破壊するのである。

 で、そういうことらしい。そして、家事なんかのシャドウ・ワークは、古来からあった、ヴァナキュラーな(その地の暮らしに根ざした固有の)活動とは、区別すんのはちょっと難しいけど、やっぱ違うんだぜってことらしい。
 急に話は変わるが平和だ。ピンフじゃない、平和だ。平和は「パックス・エコノミカ」を意味するようになった、すなわち開発、経済とがっちりツープラトンの関係になっちまったという。

……経済成長―あれこれの経済成長ではなく経済成長それ自体―に反対する者はだれでも、平和の敵として非難されかねないことになった。ガンジーでさえ、愚か者、夢想家、精神病者といった一連の汚名を着せられた。いやそれどころか、彼の教えは、開発のためのいわゆる非暴力戦略と曲解されてしまった。ガンジーの平和もまた成長と関連づけられた。「カーディ」(インド製手織りの木綿布。独立運動の時の精神的シンボル)は〈商品〉に仕立てあげられ、非暴力は経済的武器にされてしまった。

 ガンジーはこのことで助走をつけてるかどうか知らんが、そういうものらしい。最近の、まあこれもおれにはようわからんが、ピケティの論をめぐるあれやこれやでも、ともかく経済成長を良しとする側に立ってますよ、という、それが前提で私はものを言いますよみてえな、そういう圧力というか、それを言わねば「愚か者、夢想家、精神病者」扱いという強迫的な、脅迫的ななにかは存在するように思えるが。さてまあ、しかし、経済は成長していかねばならんのかどうか、おれにはとんとわからぬ。おれは一日、一日、食えるかどうかという底辺から見上げてんだ。成長も開発も見えねえよ。

 「パックス・エコノミカ」はゼロ-サム・ゲームを守り、その公然たる進歩を保障するものだ。すべての者がプレーヤーになり、「ホモ・エコノミクス」のルールを承認するように強いられる。このゼロ-サム・ゲームのモデルに合うように行動することを拒否する者は、平和の敵として追放されるか、妥協するまで教育されるか、そのどちらかである。

 だってさ。おれはもうなんというか、この社会には、このおれの貧しさ、あるいは貧しさをどうにかしなければいけないということに嫌気がさしていて、さておれは追放者なのだろうか、あるいはこれも妥協者の泣き言なのだろうか。どちらか、以外に道があるとすれば、あの世への道だろう。
 道というとこんな一文。

高速道路がもたらしたゴーストタウンは都市や田園の風景をつまらないものにした。

 これだって今日的な話じゃあないの。まあ、いつからされている話かしらんけど。もっとも、ここで著者が述べたいのは「外部費用」についてであって、そえrはまあ、その増大する外部不経済? 逆生産性? よう知らんよ。
 また話は変わるよ。どんどん変わるよ、変わっちゃうおじさんだよ。

……人間を成長中毒患者とみなす考えに賛成するか反対するかの分かれ目は、非雇用、もっとありていに言えば失業―これは賃金や給料の枷なしに働くという実質的な自由のことなのだが―をみじめな禍とみるか、あるいは有益な一つの権利とみるかの分かれ目を決めてしまう。

 ここんところから、影の労働、影の経済というとこにつながるんだけれど、昨今じゃ、なんだろうね、ニートとして生きていけないかとか、そういう話にもつながりそうな気はするんだけどね。失業は一つの権利である。なにか言ってそうで言ってないか。まあいいや。
 で、また話は変わります。

 産業労働の非情な歴史は、こうして経済学の盲点取り除くものである。すなわち「ホモ・エコノミクス」はけっしてセックスとしては中性でありえないのだ。最初から「ホモ・エコノミクス」は勤労者(vir laborans)と主婦(femina domestica)といったカップルで創られたのであって、そうしたセックスによる分割を土台に「ホモ・インドゥスリアス」はつくられた。完全雇用を目的とした社会で〈シャドウ・ワーク〉がもたらした仕組みは、前例を見ないほど効果的に機能したのであって、女が当然優位を占めるタイプの活動の価値を下落させた。他方、〈シャドウ・ワーク〉は、男に特権を付与する活動をささえてきたのである。

 性別による、労働の、その役割の、差別的な、なにか、そういう、あるいはシャドウ・ワークの主題かもしれんあたりか。このあたりは今現在どうか。いまだになんらかの解消はされていないか。解消に向かってはいるか。ただ、その解消のされかたは、われわれが「ホモ・インドゥスリアス」や「ホモ・エコノミクス」から抜け出す方向に向かっているのか、さあ、おれにはわからんわい。
 そしてまた話は変わりだす。

 威光あふれる女王陛下。文章に保存されてきた過去の遺産をつくづく考えるとき、私はいつも、こういう同じ結論に到達せざるをえません。すなわち、言語はいつも帝国の伴侶でありましたし、また永遠に同志としての役割を果たしつづけるでありましょう。帝国は国語とその誕生を同じくし、ともに成長し栄え、そしてともに衰退するのであります。

 これはエリオ・アントニオ・デ・ネブリハという……コロンブスと同時代の学者、文法学者がイサベラに捧げた言葉である。ヴァナキュラーであったカスティリア語を、正式な(制式な?)言語にしましょうや、と、そういう話、なのかな。たぶん。なんというか、いきなりネブリハとかいう人に話が飛ぶのがイリイチらしいのかもしらんが、まあ、いや、そういうところがすげえんだろう、たぶん。で、たとえばコロンブスコロンブスが何語を話したか(話せたか)なんていうのはなかなかに興味深い。いろんな言葉を使えた。しかしそれじゃいけない。ヴァナキュラーな言葉による読書なんてもんがあってはいけない。標準語化されなければいけない。……て、現代になにか関係あるのか? おれの言葉に。ある、あるんだろう。そして、そっから教育制度とかの話につながるんだろうな。たぶん。あとは、南アフリカアパルトヘイトなんかにもつながるはずだ(http://synodos.jp/society/13008)。おそらく。「黒人には、黒人の母語による教育を」ってのが、なんというのか、その美辞麗句? に反して、どんな結果を招いたのか。そういう話の土台になりゃせんか、とは思うんだが、まあ言い切れることもなく。

いまや言葉(words)は国民総生産を構成する市場的価値の最大二部門のひとつである。何が言われるとよいか、誰にそれを言わせるか、いつ、どんな種類の人々を目標に情報を流すかが、金によって決定される。発せられる言葉のひとつひとつの値段が高くなればなるほど、それだけ確固とした反響が要求される。学校で人々はあるべき話し方を教わる。貧乏な人々に金持と同じような話し方をさせるために、また病人に健康な人間と同じような話し方をさせるために、そして少数者に多数者と同じような話し方をさせるために、金がつかわれる。

 そして、専門化が進み……学校、医療、たしかイリイチが「脱」って言ってたもんにつながるの、かな?

大部分の人々が単一の言語を話すことを当然と考えるのは中流階級の成員に典型的なものである。

 で、このあたりは、日本ちゅう国を考えたらどうだろ? 地理的要素もありそうなもんだが、さて。訛りは入るのかどうか。関係ないけど、おれは電話で話しているときすごく訛るらしい。おれは電話が苦手で早口になるのはわかるが、なにかひどく東北かどこかのように訛っているそうだ。おれは神奈川育ちであって、出るような言葉の地金もないはずなのだけれど。
 話は変わる。

……いや、現代化された貧困者層は、会話や行為においてヴァナキュラーな世界がもっとも制限されている人々なのである。いいかえると、ごくわずかのヴァナキュラーな活動になおも従事することができたとしても、そこから最小の満足しかひきだせない人々なのである。

 と、なんというか、具体的には言えないが、一貧困者としてわかるところがあるような気がする。貧困でない者は産業主義社会の底にいて、なおかつヴァナキュラーなものからも遠い。コンヴィヴィアリティから遠い。もちろん金はない。金はないが、その上なのか、それゆえなのか、そうでありながらなのかわからんが、そうなのだ。

賃金で生計を立てている人々とは、生活の自立と自存にささえられた家をもたず、みずからの生活自立を基礎づける諸手段を奪われており、他者になんの生活自立の助けもできないことの無能を感じている人たちのことである。

 ああ、もうグサリとこんなことを言ってくる。そうだとも、そうに違いない。そうやって消耗していく。消耗していくくらいならトマト(以下略)が人間らしい、のかもしれない。だが、そう簡単には人間変わることはできないし、この巨大な社会というものはもっと変わらない。

……人々が自分自身を破滅させる行為へと参加するように組み立てられた社会組織というものは、散文によっては正しく言い表すことができない。その意味を把握するためには、われわれはパウル・ツェランの『死のフーガ』に耳を傾ける必要があろう。「……こうしてあなたがたは宙に墓を掘るのだ……雲の中に墓を。そこでは人は窮屈な思いなしで眠れる。」より精妙な形態をとる隔離体制(アパルトヘイト)は、つねにそこに内在する「邪悪なる秘儀」をわれわれが洞察しようとするのを妨げるのだ。ドイツにおける過去のファシズム、あるいは南アフリカにおける現在のそれは、そのことを明示している。

 ふーむ。……となにか考えているふり。イリイチという人やその思想はやさしいのかもしれないが(敵対者にとっては強烈な一撃なのかもしれないが)、本ははっきり言ってあんまりやさしくない。一から十まで順序だって説明してくれるわけでもない。そこんところがあれかもしれないが、おれみたいなのにとっては「うーん」となってしまう。なってしまうけれども、なにかここに大切なことが書いてあるような気がするんだけどな、というところもある。なにかのトピックスがあって、「あ、これはイリイチの」となるようなタイプのように思える。が、残念なことに惨めな賃労働者のおれはこの本、図書館から借りてんだよね。手元に置いておけない。まったくしょうもない。本当に。

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