古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』を読む

馬たちよ、それでも光は無垢で

馬たちよ、それでも光は無垢で

 私はどうして東北六県の小説を書いたのか。
 その六県が封鎖、封印されるような小説を?

 福島仲通り出身の著者による、3.11直後の……なんだろうか。ルポルタージュだろうか、小説だろうか。なにせ『聖家族』の兄、狗塚牛一郎が出てくる。必然的に出てくる。そして馬たちが出てくる。著者たち一行は震災後すぐに福島に向かう。馬たちがいる。牛もいたかもしれない。コンビニもある。原発もある。神社もある。死体は見かけない。白い鳥を見ない。
 おれはこの本を『聖家族』読了後に開いて、一気に読みきった。変な言い方だが、ボーナスのように思えた。『聖家族』なる「メガノベル」をいくらか解きほぐしてくれる、そんな本のように思えた。タイトルも美しい。『ベルカ、吠えないのか』くらいに美しい。
 しかし、その中に描かれているのは震災直後の惨状であり、著者の動揺でもある。横浜のおれも動揺していた。食いつくように報道に見入った。時間の経過が実感できなくなった。原発をテレビ越しに見つめ、来るかもしれない大余震に備えた。おれは頭がおかしくなっていった。おれが精神科に通うようになったのはその年の暮れである。
 おれは、そんなことを思い返した。おれの時計の針は進んでいった。1年後の3.12、2年後の3.13、3年後の3.14……。生活はますます貧しくなっていた。おれはますます狂っていった。おれの生活は行き詰まる一方だった。死にたくないのに死んでいった大勢の人間がいる。死にたいと心のどこかで思っているのに死なないで生きている人間もここにいる。釣り合いがとれていない。

自己憐憫は結局のところ他者と世界を憎むことだ。まず憎しみを棄てよ。もう口にするな。

 さて、おれには難しい。なんの整理もつかない。つける気もない。ああ、馬たちよ。