おれのラーメン理論と『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』(中島義道)

 いきなりだがラーメンの話をする。おれでもいいし、君でもいいが、キッチンでラーメンを作る。君だかおれだかは腹が減っていてラーメンを作って食おうとしている。が、ちゃぶ台なりテーブルなりに運ぶ途中、手が滑ってラーメンをフローリングなりカーペットなりにぶちまけてしまう。部屋はスープでびちょびちょになるし、さっきまで腹に収めようとしていた麺も食えたもんじゃない。ゆでたまごだのほうれん草だのも湯気をたてて転がっている。最悪じゃないか。だから人間は自殺しちゃいけないし、人は人を殺してはいけないのだ。
 ……いつだったか、「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが流行ったときに、おれがいろいろ考えた上で出た結論がこれだった。おまえ、ラーメンをぶちまけるなんて最悪じゃないか。だから、人は人を殺しちゃいけねえんだ。勘違いしないでほしいのは、おれは比喩で言ってるんじゃないってことだ。人の命や人生というものをラーメンにたとえてるわけじゃないんだ。ラーメンをぶちまけると最悪だから、人は人を殺しちゃいけないんだ。間髪を入れず、そうなんだ。比喩じゃないというのは言い過ぎかもしれないが、曖昧でよくわからない全体がそこにはあるんだ。
 こんなもの人に理解しろというのは無理がある。ただ、おれのなかでは一本の筋道がある。電光、影裏に春風を斬らん!

 ……とかいいつつ、おれの希死念慮というか自殺願望は日に日に増すばかりで仕方がない。アルコールか薬で脳を深い海の底に沈めているとき以外は、自殺のことばかり考えているといっていい。そんなおれがふと『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか」なんていう本がデルヴォーの表紙で置いてあったら手に取る以外にないのである。というか、著者は中島義道、おれはこの人がなんというのかだいたい想像がついた。たぶん「哲学せよ」と言うのだ。それはもう、これまたおれにピッタリの本である『働くことがイヤな人のための本』で承知のうえだ。

 と、思ったが、著者の叫びのようなものは、まず直裁的であった。ある若い人に、なぜ自殺してはいけないのかと問われ、こう答える。

 答えは唖然とするくらいない。なぜ自殺してはいけないのか、ぼくにはわからない。人生五〇代の半ばまで来てしまい、ふりかえってみるに、たしかに「生きていてよかったよ」と自信をもって言えることはないのだから。

 生きていることが辛い。これからますます辛くなるだろう、ときみは言う。そのことはどこまでも真実だから、「そうではない」とぼくは言えない。ぼくはただ沈黙して、きみが死なないことを祈るだけだ。なぜか。なぜなら、ぼくが悲しいから。そうだ、それだけなのかもしれない。それで十分ではないか。きみが死んだら、ぼくは悲しい。だから、死んではいけないのだ。

 哲学者にしてこれである。そしておれはこれをとてもとても誠実な物言いだと信じる。ここにはなにか人生を達観したような雰囲気なんてありはしない。人生にいいことなんてない、という真実を素直にぶっちゃけてしまっている。この本の後半で描かれている著者の境遇など読むに、「かなり恵まれた人生を送っていながらなに言ってんだ」と言いたくなる心情というやつはある。あるが、おれはこの人がある種の不幸な疑問にとりつかれて子供時代を送り、青年時代を送ってきたことを嘘とは思わない。これを書いた時点でもそう思っているに違いないと考える。
 おれはその正直さが好きだ。そして、おれはこのような「問い」そのものを潰してしまおうという人間を、正直言って……どう考えていいかわからない。考えの足りない馬鹿じゃなかろうかと思う一方で、おれのような無能には得ることのできない人生の秘密を解き明かしてしまった人なのかもしれないとも思う。上から目線だろうが、下から目線だろうが、ともかく同じ生き物とは思えない。
 いずれにせよ、おれのような者にとってこの世は生きるに値しないし、この世の方もおれは生きるに値しないと審判を下している。少なくとも資本主義のこの社会では、おれはおれが生きていくだけの糧を稼いでいくことはできない。おれは頭が悪いし、おまけに病気だ。おれが労働の真似事をしたところで、世間はおれに回す金が無いようだ。もっとそれに適した人間のところに金は行く。そのようにできている。だから、おれは生きている意味などないし、これより一層落ちたら住処を失い路上か刑務所に行くよりない。残されているのは自殺しかない。おれはその三つなら自殺を選ぶだろう。
 さて、そのときがきたらラーメンをぶちまけるのか。最悪を選ぶのか。もっと最悪があれば、そうするだけなのだろう。あるいは、だれかを殺す人間だって、高級自慰器具の強盗だって、ぶちまける覚悟でやったに違いない。人類の歴史はラーメンを作ってきたと同時に、ぶちまけてきた歴史だ。そしてまた、ラーメンをこぼさない工夫をしてきた人間もいるだろうし、パンを食うことにした人間もいることだろう。ただ、一度ぶちまけたラーメンをそっくりそのまま元通りのできたてラーメンにはできない。それができると言ってるやつは大法螺吹きだ。大法螺吹きも嫌いじゃないが、おれのラーメンを運ばせようっていう気にはなれない。おれのラーメンはおれが運ぶしかない。
 話を本に戻す。おれはほとんどラーメンに興味はないんだ。ラーメンが獣臭い事件にはいくらか興味はあるが(それもどうでもいい)。著者は自殺を決意した人間が、自殺せずにおる理由を説く。(一)と(ニ)は、周囲の人が悲しむから、と、死ぬそのときが直感的に怖いから、である。さてここで、でまあ、おれの予感はやっぱり当たっていて、「哲学者=愛知者(Philosopher)」に限った話としてこう言う。

(三)真理を求めることを第一の生きる目標に定めた者は、それを実現する可能性をみずから放棄してはならない。

「いま生きているこの私は、なぜまもなく死ななければならないのか」という問いに射貫かれて生きる者は、アリストテレスを知らなくてもカントを知らなくても、いかなる存在論も時間論も知らなくても、哲学者という資格をもっているだろう。

 こういう「哲学者」は死んではならぬ。ならぬことはならぬ、という。……さあ、説得力はあるのかないのか。そもそもこれは「人は」の主語では語れない。おれは、矢に射貫かれたものか? おれはこの三つ目の理由に値するのか? はなはだ怪しい。「おれはおれの自殺についてすごい考えてるし、名古屋には二回くらいしか行ったことないけど愛知者だ」と言える自信がない。人生には、人生の裏側には、人間の臓腑をひっくり返したところになにがあるのか(実際の身体で確かめたら別の意味で首を吊るすことになるが)、それが気にならないわけじゃあない。そうじゃなきゃ仏教なんぞに興味を持つこともないだろうし、この本を手にとったりはしないだろう。もっと言えば、おれのようなできそこないができてしまう理由を求めて足りない頭で脳科学の本を読んだり、進化心理学の本を読んだりもしないだろう。それにセリーヌの全集を苦行のように読んだりもしないだろう。
 とはいえ、おれには哲学するための準備運動なんてありゃしないんだ。その用語を、定義を、歴史を我がものとし、血肉とし、その上で走りだすなんていう苦労は……まっぴらゴメンだ。

 「私」は過去形とともに出現するのであるから、過去形を作れないことをもって消滅する。死とは永遠に過去形を作れないことであり、それゆえ、ただその意味でのみ、「私」は消滅するのである。

 うむ、わからん……わけではない。ただ、これがより厳密な言葉で語られるとき、おれは基礎体力の無さからへばってしまうだけのことなのだ。ようするに頭が悪い。おれには目の前の困窮の恐怖にうまく折り合いをつけて生きつづけることは大変困難なことに思えてならない。今、ここ、自己の精確な座標を掴みたいという願望がないわけではないが、それこそ大変困難なことであって(まあ、危険ドラッグを一発キメたらわかってしまう可能性もあるとは思うが)、そこに生きることの意味を見つけるほどの根気もない。むしろ、死にゆく自分をその直前まで意識することで見えるものがあるのではないかとすら思っているのだが(もしそうだとしても、誰にも伝えられないのは残念な話ではある)……。
 まあ、おれは今日のところは自殺はしない。明日もしないだろう。明後日となるとあやしいところがあるし、一年後というと、経済的におれがおれのスイッチを押してしまったあとの時間が流れているのではないかと思う。この感覚がそのままスライドしていって馬齢を重ねる可能性もないではないだろうが、この世におれを生かす余裕はないように思えるし、おれには人生を好転させるだけの最後の切り札一枚持っていない。こんなところだ。
 そんなわけでおれは少なくとも今日も死にたい、死にたいと書くし、明日も書くだろう。「死にたい」と言うやつにかぎって死なないというのは、心理学的剖検というやつで否定されている話だし、おれが双極性障害を患っている事実もある。おれの手持ちの金もどんどん減っていっているという事実もある。ふっと日記の更新が途絶えたら、つぶやきが途絶えたら、それはそのようなことと考えてもらっていいだろう。それではみなさん、さようなら。

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