上原善広『韓国の路地を旅する』を読む

韓国の路地を旅する

韓国の路地を旅する

 「韓国の路地を旅する」……。タイトルだけ見れば「藤原新也の写真集?」とか思ってしまうところである。ところが、上原善広という著者名を見れば「路地」の意味は一気に変わってくるし、察しのいい人には「それの話題か」ということになる。
 白丁(ペクチョン)をめぐる旅、である。おれは白丁という単語とその韓国語の読み(もっとも、カタカナ発音で通じるものではないだろうが)は知っていた。おそらくは2chあたりの嫌韓的書き込みからである。いったいそれが韓国人全体を罵倒するものかなんなのかまで知らなかったが。高校の世界史で習った韓国の身分制度といえば「両班(ヤンバン)」くらいであった。
 白丁は、日本で言えばざっくり言って「路地」の者、被差別部落のものといっていい。似たようなところもあるし、違うところもある。本書はといえば、「路地」出身の著者が、隣国である韓国の被差別部落を取材する、ということになるわけだ。
 が、話は簡単ではない。

 実際に、韓国に出向いてフィールドワークをしたり白丁問題のシンポジウムに参加している日本人の研究者に訊いても「今でも韓国に白丁差別があるのかないのかにつては、よくわからないのが実情」と話すだけだった。これはいったいどういうことなのだろうか。
 要するに「現在でも差別があるのかどうか。さらには現代における白丁という存在についてさえ、よくわからない」というのが実情のようだ。

 その曖昧模糊とした実情について、著者は旅をする。その答えはといえば、「白丁は過去のもの」であると同時に「白丁の家柄といえば結婚は躊躇する」というよくわからないものであるし、「日本には部落差別が今なおあるというが、なぜ引っ越してしまわないのか」という韓国人からの反応である。日本の併合による混乱、さらには朝鮮戦争という混乱によって白丁部落というようなものは霧散してしまったという一面がある。屠殺業についても、決して好まれる職業ではないし、若者に人気があるわけでもないが、白丁とは区別されている面もあるという。とはいえ、高度経済成長する中にあって、肉屋だろうとなんだろうと金を持っていれば問題ない、という面もある。一言には語れない問題であるし、問題でもないとも言える。なにせ、映画のキャッチコピーに「かわいい白丁」の女の子というような使われ方すらしているのだ。日本のそれとは大きく違うといってもいい。
 曖昧模糊。うん、それがなんとなく読んでの感想である。曖昧模糊でない部分に行き着いたりもする。そのあたりは本書を実際に読まれたい。とはいえ、やはり韓国社会では曖昧模糊なのではないか、という感想がある。しかし、一方でそれはやはり「ある」とも言えるのである。

 「おそらく白丁差別はまだある」そう日本にいるときから仮定としては思っていたが、それでも、わたしは、なくなっていてほしかったのである。せめて、絶滅寸前であってほしかった。韓国人に「日本は後れていますねえと言ってほしいものだと思っていた。わたしも笑いながら「そうだねえ」と悔したがりかった。

 ここに著者がたどり着くまでの「旅をする」。これはなかなかに読ませるものがある。そしてなんだろうか、人間が肉食することについてふと疑問に思ってしまうところもあるのである。柳行李を作るの被差別民の生業である、というのにはまるでピンとこないのだが、屠殺やその加工というと、なにかしらわかってしまう、その「わかってしまう」のが差別そのものなのだろうが、人間は肉を食べずにはおられないのか、という気持ちになる。いずれは人工肉などに取って代わられるのかもしれないし、えらく効率の悪い畜産というものが消滅してしまう(肉何キロを生産するのに穀物がどれだけ必要かとかそういう話)かもしれないのだが。ふむ、おれは肉食のクジラ食いだが、その背景にあるものを少しは気にしてしまう。べつにベジタリアンになろうっていうわけじゃないが、考えないこともない、のである。おしまい。
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