馬の代わりに人間を走らせて、その人間に金をかける競輪ほど人間の精神を侮辱するものはないって? 三好円『バクチと自治体』を読む

 

バクチと自治体 (集英社新書 495H)

バクチと自治体 (集英社新書 495H)

 

なにやら『ヤクザと憲法』のようなタイトルだな、と思って手にとってみた。むろん、おれは競馬の愛好者であり、たまに残りのニ競とオートを買ったりするちんけな博打好きである。『バクチと自治体』と言われてもべつに動じないのである。「特別区競馬組合とかの話かな?」と思うばかりである。そして、実際にそういう本であった。東京都を中心に、戦後の公営ギャンブルについての記録である。

ところで、この本が出版されたのは2009年のことである。これに多少留意しなくてはならない。「はじめに」にこのような記述がある。

日本からすべての公営ギャンブルが消えてなくなる、ということは当面はあり得ないだろう。だが、参加する自治体が減少し、規模が縮小していくことは間違いない。一度くらい、その足跡を振り返ってやってもいいのではないか。誰かが書きとめておかなくては、いつか分からなくなってしまうこともあるだろう。これが本書を書き始めた動機である。

なんとも悲観的である。とはいえ、この悲観はまったくの現実ではあった。いや、競馬者としてほかの競技についてはわからぬが、少なくとも地方競馬にはこの悲観があった。ドミノのように地方競馬場が消えゆき、次は高知かばんえいか、いや、南関四場だって浦和あたりは安心とはいえないぞ、という時期だった。

しかし、2018年現在、地方競馬はどうなっているのであろうか。「地方競馬 売上」などで検索すると、こんな記事が出てくる。

www.nikkei.com

本書の参考文献にも挙げられている日経の野元賢一の記事だ。V字といえるかどうかわからないが、回復基調にあるという。高知など8年で売上が6.5倍になっているという。景気が回復したのか? インターネットのおかげか? いや、なんといっても中央競馬会の助けあってのことか? まあ記事を読めばよろしい。それにしても、もう少し早く中央との連携がとれていれば、と思わなくもない。この点については、本書でも最後の方で著者が述べている。あまりに差がついてしまったJRAと地方の差。

 中央競馬地方競馬が二本柱でないことは、もはや誰の目にも明らかだ。こうなると、そのたびに議論されるのが地方競馬中央競馬の一体化である。規模ではるかに上回るJRA地方競馬を吸収する、というのが現実的な考え方であろう。しかし、双方ともにそうした構想はないと否定する。今回、取材させていただいた農林水産省生産局畜産部競馬監督課の担当者も「成り立ちから何からまるで違う両者が一緒になることはあり得ない」と否定した。

 しかし、それには「今回の法改正では」とか「当面は」という但し書きが付くはずだ。将来、地方競馬南関東だけになってしまったとしたら、そんなことは言っていられないだろう。そもそも、二種類の競馬が存在する国など、日本以外にないのだから。

果たして、現状が一緒になった状態、といえるかは怪しい。怪しいが、中央の馬券を売ることで地方が潤っているのは事実だ。著者は「公営ギャンブルはその役割を終えた」とまで書いているが、ひょっとすると、競馬に関しては現状の規模がやっていくにちょうどよかったのかもしれない。

とはいえ、おれ個人としても競馬の一本化というのは賛成だ。騎手免許のあり方もいびつだし、ほとんど地方馬が馬場掃除に終わる(しかも当地のトップクラスは回避して、地元でも勝負になってない馬が顔を並べてたりする)交流重賞も「これでいいのか?」と言わざるをえない。

人(騎手や調教師)も、馬も、地方の小さな競馬場から経験を積み上げ(馬に関しちゃ芝かダートかって話になるが)、選ばれた者が中央の大舞台に立つ……みたいなのは理想論だろうか。それにはもうちょっと地方競馬の賞金が上がらなきゃいかんだろうし、地方はマイナーリーグでいいのか、ということにもなるが、現状マイナーリーグなわけだし。とくに騎手なんて、あのあんちゃんだった戸崎圭太が中央のリーディングとったりするんだぜ。乗ってなんぼって面も否めないだろう。そこんところを整理しないで、外国人騎手に席巻されてるのを問題視するのも変な話だ(ちなみにおれは信頼できる騎手は好きなので問題視してないのだけれど)。

 

フォーカス馬券

……と、話が2018年に戻りすぎた。本書で初めて知った公営競馬の歴史は少なくない。たとえば「フォーカス馬券」と呼ばれる枠単。戦後間もなくの八王子競馬で導入されたものである。

……出走馬を一枠から六枠に分けて、一、二着の枠番号を着順通りに当てる……

というのはわかる。が。

 ただし、この馬券の仕組みはいささか乱暴なものでもあった。主催者が強いと判断した馬が一枠から五枠までに一頭ずつ入れられ、それ以外の馬はまとめて六枠に入れられるのである。出走馬が何頭いようと同じだった。

 これで枠番号連勝単式の馬券を発売すると、一枠から六枠までの組み合わせの裏表と六枠のゾロ目だから、その組み合わせ数は三十一通りとなる。

なにせ馬がいなかった時代である。六頭立てで単勝を発売しているくらいじゃやってられん、というところでの乱暴な枠単。おれはたぶん六枠絡みばかり買っていたことであろう。

と、これを売っていたのはまだ東京都でも八王子市でもなかった。しっかりと法的根拠のない草競馬、悪く言えば闇競馬であった。とはいえ、GHQなどと折衝のうえ、きちんと法律に則ったものになっていく。戦後、ともかく金がなかった自治体は、ギャンブルという毒で庶民から金を巻き上げていく。東京都はドッグレースまで検討していたという。どうせならハイアライとかも検討すればいいのに。

 

黎明期の競輪

ほかに創世記話としては、競輪で「一般実用車」による競走が行われていたり(現代だとママチャリ競走ということになろうか)、女子競輪も行われたが二人しか選手が集まらず、職員のタイピストを出走させたりと無茶苦茶だ。

とはいえ、競輪は全国に普及する。なにせ、施設の開設がほかの公営ギャンブルに比べて容易だからだ。オートと競艇にある騒音問題も少ないし(とはいえ、この現代において無観客のミッドナイト競輪が行われたりしているが)、死亡事故も少ない。

ちなみに、おれは川崎競輪場と、今はなき花月園競輪場に二度行ったことがあるだけである。やはりどうにも、難しい。その推理の難しさが若者を遠ざけていると本書でも指摘されているが、競輪の「コク」にたどり着くにはそうとうの努力が必要だろう。新聞を買えばラインは予想されているが、じゃあそのラインを構成する選手の脚力はどうなのだ、となると、そこがわからん。どれだけ選手の脚力だの性格だのを覚えられるか、そこが勝負となり、推理に挑むのであろうが、山は高い。スジ通りに決まるわけでもなく、オッズと買い目の感覚も競馬とは随分違う。

……って、また今のおれの話になってしまった。ともかく、高い人気を得た競輪。一方で、騒擾も起きる。誘導員もおらず、競技に客が慣れていなかったころは、八百長と目に映る場合も少なくなかった。だれかが「八百長!」と叫べば火をつけた新聞を穴場に突っ込む、投石が起こる(当時はそんなに石が落ちていたのだろうか)、イメージも悪くなる。

鳴尾事件 - Wikipedia

この騒擾では、警察官が発砲して人死まで出てる。しかし、Wikipediaのこの記述は本書にはなかったな。

事件以前は競輪を「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、鳴尾事件が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、事件以降は「けいりん」に改められた。

要出典。

まあ、こんな事件が起こり、朝日新聞なんかが競輪廃止なんかを書きたて、世論は競輪廃止に盛り上がっていく。

当時の天野貞祐文部大臣はこんなことを言っている。

……競輪ばかりでなく、宝くじ、競馬といったかけごとを政府がまっ先になって奨励し、その金で学校を建てたり、図書館をつくるというぐらい不健全な話はない。これでは正しく働いて正しく生きようとする倫理はそこなわれるばかりだ。しかも馬の代わりに人間を走らせて、その人間に金をかける競輪ほど人間の精神を侮辱するものはない。競輪の終った時などよく国電水道橋駅あたりで、かけごとに狂奔してつかれ切った人々の顔を見かけることがあるが、みんな荒み切っていてみるにたえない。

太字は引用者による。しかしまあ、あまりの言われようだ。これは競馬ファンとしてもいい気はしない。馬にも競輪選手にも失礼だ。ちょっと競輪ファンはこの天野さんになんか言ってやったらどうだ。……って1980年に亡くなってるけど。

天野貞祐 - Wikipedia

文部大臣時代には戦後の人心の荒廃と受験競争の激化を憂慮して1951年に『国民実践要領』を作成[4]して道徳教育の必要性を唱えたところ、日本社会党などの野党や日教組から「反動的な修身教育の復活だ」と糾弾され[5]、白紙撤回に追い込まれた[6]。

でも、なんか社会党とか日教組に糾弾されてたのね。競輪関係ないけど。まあ、大川慶次郎慶應大学で「いななき会」という競馬サークルを立ち上げたらしい)に誘われて馬主になった河野一郎くらいがいいよ、政治家は。

 

公営ギャンブルはどこへ行く

まあ話が散漫になってしまったのは許してくれ。「散漫」という単語が頭に浮かぶと同時に、メジロサンマンとか馬名が脳裡をよぎる人間の書くことだ。

で、公営ギャンブルはどこへ行くのかね。著者は当時の状況もあって、もう役目は終えたくらいのことは言ってる。バブル崩壊以後、多くの人が職を失っているのに、かつて自治体を支えたからと言って公営ギャンブル関係者だけが優遇されるのはおかしいとも。

とはいえ、まあ、十数年経って、少なくとも地方競馬は回復基調にある。ほかは……。

閑散としていた「競輪場」に、なぜ人が集まってきたのか (1/5) - ITmedia ビジネスオンライン

競輪もちょっと持ち直しているのかね。なんかやっぱり景気と民営化とネットかねぇ。重賞式とかも珍しくなくなってるしな。ただ、カジノを作ろうとか言い出したせいで、反対派がギャンブル依存症(病的ギャンブリング)を持ち出したりと、いつまた「人間の精神の侮辱」とかいう逆風が吹くともかぎらない。

あと、大きなライバル(?)であるパチンコ。こちらはいろいろな規制を食らって落ち気味らしいが、やはり反パチンコ(といっても、純粋な完全廃止派から三店方式見直しでもっと税金取れ派やらなんやらいると思うけど)からギャンブル依存症対策となって、公営ギャンブルが頬かむりしているわけにもいかないだろう。

それになんといっても、少子高齢化。というか、公営ギャンブルの場合、単なる高齢化。寿町のボートピアとか行ってみろよ。おれより若い人なんていないぜ(サンプルが偏りすぎの可能性あり)。まあ、若者は自宅でパソコンの画面でデータチェックしつつ、携帯端末で買ったりしているのか。

それにしても、たぶん、競輪なんかのとっつきにくさはきついもんあるぜ。競輪祭でもグランプリでもいいけど、偶然テレビのチャンネル合わせてみても、最初の方でゆっくり(に見えるが、たぶん素人はバンクであの自転車を走らせることすら無理なのだろう。いや、知らんけど)グルグル回ってる間にチャンネル変えられちゃうぜ。

あと、進入と1マークでほぼ勝負が終わってしまう競艇の「コク」もおれにはいまいちわからんのだが……。アワカツみたいに素人にも「なんだそれ」みたいな例が多ければな。

まあしかし、日本からすべての公営ギャンブルがなくなる、ことは当面ないだろう。少なくとも、おれが生きている間はあり続けるだろう。本音を言えば(つーか、こんだけ他の競技の悪口言っておいてなんだけど。あ、オートレースは一回川口に行ったことあるけど、警備員の態度が悪すぎて二度と行く気なくなった)、競馬だけでも残してください。そして、おれに小銭を賭けさせる余裕を……。

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d.hatena.ne.jp

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わたしは誰と競い合ってるわけでもないし、不朽の名声に思いを巡らしたくもない。そんなものはくそくらえだ。生きてる間に何をするかが問題なのだ。太陽の光が燦々と降りそそぐ中、ゲートがぱっと開かれ、馬たちが光の中を疾走し、所属の厩舎の派手な色の服と帽子を纏った小さくて勇敢な悪魔たち、すなわち騎手たちは、誰もが勝利をめざし、見事に自分のものにする。行動と挑戦の中に栄光はあるのだ。死などどうだっていい。大切なのは今日、今日、今日なのだ。まさに然り。