本村凌二『競馬の世界史』を読む

 

  維新期の一八七〇年(明治三年)のことだが、来日していたイギリス人は創設されたばかりの横浜の根岸競馬場にたたずんだときの思いをもらしている。

 「グランド・スタンドからの眺めは絶景である。右手と左手には、緑の田園が広がり、前と後ろには、無数の白帆が浮かぶまるで絵のような海面が見える。イギリスでは、グッドウッドがもっとも美しい競馬場とよばれているが、横浜の根岸競馬場の方がはるかに優り、これほどすばらしい競馬場はかつて見たことがない」(Japan Weekly Mail,一八七〇年十一月十二日)

 新設されたばかりの競馬場からは、富士山、江戸湾、房総半島、三浦半島などの風景が見渡せたという。およそこの世のものとは思えぬ絶景が広がっていたのだろう。筆者はこの記事を読んだとき、あらためて日本の競馬ファンであることに自負心をくすぐられる思いだった。

「プロローグ」

著者がイギリスで一番美しい競馬場と思っているグッドウッドよりも、さらに根岸の競馬場の方が美しかったと書いているイギリス人がいる。なんともすごい話だ。今の根岸競馬場跡地からは何が見渡せる? ランドマークタワーとマンションか? 

というわけで、ひさびさに競馬の歴史をひもといてみたくなって手に取った本書。副題に「サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで」とあるが、これは大嘘で、サラブレッド誕生よりはるか以前から、今日まで、というのが正しい。

 紀元前一世紀末、ローマは地中海全域を支配下におさめ、この広大な地域に空前の平和が訪れた。世に言うパクス・ローマーナ(ローマの平和)である。この平和のなかの繁栄を象徴する出来事として、しばしば「パンとサーカス」があげられる。ここでいうサーカス(circus)は、曲芸のことではなく、ラテン語ではキルクスと読み、楕円形のコースを意味する。もちろん、それは戦車競走の走路のことである。

「第1章 古代民衆の熱狂」

恥ずかしながら「パンとサーカス」の「サーカス」が競馬とは知らなかった。当時の偉大な騎手(御者)の記録を記した碑文すら残っているという。『ラテン碑文大全』を現代競馬用語に置き換えた著者の訳文は本書を読まれたい。

あとはまあ、サラブレッド三大始祖から現代までの話である。とはいえ、たとえば初期の競馬は4マイルあたりが主流であり、なおかつサラブレッドが成熟するのは7歳とか8歳とか考えられ、それまでずっと調教してレースには出さなかったというのだから、現代とはそうとうに違うな、と思わずにはいられない。しかも4マイルレースのマッチレースで2勝先勝で勝ち、みたいなことを1日でやっていた。そんなん知らんかったわ。いや、たしか境勝太郎が「ナリタブライアンサクラローレルみたいな馬は7歳でも8歳でも勝負になる」みたいなことを言っていたし、この頃では調教技術の進歩ということもあって高齢馬の活躍も普通になってきたが、いやはや、というところ。とはいえ、オーストラリア競馬などでは、中2日とか現代でもやっているので、はたしてサラブレッドにとって最適な競走過程とはなにか、ということについてはまだまだ未知なのではなかろうか。とはいえ、2歳から走らせて2400mあたりがチャンピオン・ディスタンスというのはわりと歴史が浅いのであった。

 一八七八年、ロシアとトルコとの戦争を調停するために、ベルリン会議が開催された。その席上で、ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルク大英帝国ディズレーリ首相に熱意をこめて語ったという。「イギリスは絶対に社会主義国にはなるまい。あなた方は幸せな国だ。……イギリス人が競馬に熱狂しているかぎり、社会主義があなたの国に発生する機会はない」

「第5章 市民社会と近代競馬の発展」

して、ヴィクトリア女王宛のディズレーリの書簡にこんなことが書かれていたという。イギリス人、馬鹿にされているのか、褒められているのか。後者と思おうか。ソ連でも競馬をやっていたが(アニリンについては本書でも言及されている)、やはり競馬はダメ人間を多く擁することのできる国で栄え、戦争や社会主義体制下では弱まる。その点で、ギャンブルに目くじら立てる日本共産党とは個人的に分かり合えないところがあるのは事実だ。勝政党投票券の投票行動は別として。

 イギリス人は馬に賭ける人をパンター(punter)と呼ぶ。ギャンブラーと言うことは滅多にない。パンターという呼び名は、ハンター(狩人)を連想させて、いささか滑稽な響きがある。このパンターが狙うのはだいたい大きな獲物である。だから、大きな獲物にありつけないようなものにパンターは近づかない方がいい。

「エピローグ」

うーむ、小銭を小銭+αくらいになればいいな、という賭け方をしては負けているおれはパンターではないな。なにせ明日だってレイデオロから買うつもりだし(オッズ的に不慣れな三連単になるだろうが)、共同通信杯もステイフーリッシュが賞金加算できるだろうというような馬券にするつもりだ。両方ともおれの好きな馬だ。やはりパンターにはなれないなおれは。

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『世界の競馬史』で著者が「日本の地方競馬について書けなかった」というが、そこはこの本で補えばいいだろう。

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