『知性は死なない』が……?

 

知性は死なない 平成の鬱をこえて

知性は死なない 平成の鬱をこえて

 

双極性障害を患わった知識人である著者による平成回顧である。おれはおれ自身が双極性障害(II型)であるがゆえに、双極性障害についての記述については厳しいぞ、などと思った。

じっさい、うつ状態になると、いわば言語で動いている自分の意識にたいする「身体の自己主張」というべきものが起こります。頭では「起きあがろう、起きあがれ!」と司令を出しているのに、手足が持ちあがらず、布団から出られない。

このあたりの「鉛様疲労感」については、まったくこのとおりだ。この身体感覚を体感した人間と、そうでない人間の間には、かなり深くて暗い闇が横たわっているように思える。おれが「鉛様麻痺」とか、「ひどい倦怠」と書くのは、まさにこれだろうということである。

が、しかし、本書には、それを含み、それながらにぶち抜いてほしいという思いもあった。いかにも、知識人、進歩的知識人の「平成の鬱」が語られていて、それがいかにも客観的であって、「あ、やっぱり、知性は死なないって言ってるな」という具合に収まっている。

おれが期待したのは、平成躁鬱幻魔伝のごとき、現と我が身の夢幻を照らし合わせた怪奇伝であって、このように「知性は死なない」ものではなかったのである。というか、「知性は死なない」といっているので、おれの言いがかりに近い。

というわけで、アメリカもソ連も同じような「人工性」の帝国にあって、同じように滅びゆき……などということも、「そうだなあ」と思うばかりで、著者の双極性障害はあくまで外側にあって、それを見届け、解釈するにすぎないのである。それはそれで、この障害を負ってしまったものの宿業かと思いつつも、「真面目か!」というツッコミもせざるをえないのである。というわけで、本書は「真面目A」、「扇動性D」みたいなところにあって、知性より身体性に重きを置くおれには合わなかったのかもしれない。というか、そう思った時点で「扇動性A」なのかもしれない。これは各自読んだ上で判断すべきである。

つーか、おれら、まだ、「平成」という区切りがあったとして、それを客観的に振り返ることなどできぬというのが本音であろう。本書も、いずれ、十年、二十年経ったのちに、この時代の証言として価値が出てくるものであろう。しらんが、たぶん。