チャールズ・ブコウスキー『英雄なんかどこにもいない』を読む(ちょっと読んでない)

 

ブコウスキーの「未収録+未公開作品集」を読んだ。読んだといっても、ぜんぶ読んでない。正直に言う。年度末で忙しくて、読書する時間がない。くそったれ。

それでも、おれが元ネタをよく知らない書評的なもの以外はだいたい読んだかもしれない。読んでないかもしれない。読んでないような気がするのでまた手を出すかもしれない。

でも、とりあえず、このご時世に「平和の押し売り」という一編から少し引用しておきたい。

 精神にチャンスが与えられることなど決してない。「戦争平和かどちらを望む?」とありきたりの人間に尋ねたら、そいつはこう答えるだろう。「もちろん平和を望むよ。戦争は愚かで馬鹿げたことだ」

 平和を望むとそいつは言うが、平和とはどんなものかがわかっていない。平和など味わったことが一度もないからだ。

 彼は戦争のために産み落とされ、その中へと押しやられ、尻を自分の顔に押しつけられてもその尻のポケットに手を伸ばし続ける黄金の脚の娼婦のように戦争と同衾することを厭わない。ああ、何てことだ、彼は戦争を強く望むようになり、戦争をしたい!! と喚き出す、しかし彼はちっちゃな脚でよちよち歩きを始めたその瞬間から一度たりとも平和を体験したことがないので平和と恋に落ちるようなことは決してない。それは誰にでもわかるとんでもなく哀れで残念なことなので、時としてわたしは激怒に駆られ、手にしたウイスキーが並々と入ったグラスを飲み干す代わりに壁に叩きつけてしまう。

この部分だけではなんのことかわからないので、「平和の押し売り」を全部読んでもらいたいのだが、そういうことだ。われわれは平和を知らない。産み落とされた瞬間から戦争をしている。人間の人生とは平和とはほど遠い戦争状態にあるという。もっと惨めな状況にあるという。そういうブコウスキーの、おそらくは幼少期や少年期に感じたところがよく出ている。とはいえ、ブコウスキーはこう締めくくる。

 そろそろわたしたちは心の中の大切なことがそうするように命じるように歩いたり喋ったりしてもいいのではないか。今より素晴らしくより大きな奇跡が起こる時で、そのことについて語り、自分たちがこんなにも長い間間違い続けていたと気づく時なのだ……これは物乞い(begging)ではなく始まり(beginning)だ。平和が乞い願うものとは実現されること以外の何ものでもない。

  さあ進み行こう、

   あなたに平和を、

    チャールズ・ブコウスキー

おれにはこの一編をよく理解できていないかもしれない。「平和が乞い願うものとは実現されること以外の何ものでもない」のところがよくわからない。それでも、あなたに平和を。労働や疲弊ではなく、平和を。そこが根底にあって、平和がある。はじめて平和を知ることができる。そういうところもあるのではないか。おれたちは本当に平和を知っているのか。ブコウスキーウイスキーを投げつけられないように、考えなくてはならない。