わたしがブログを書く理由~ただ書く、それだけ

特別お題「わたしがブログを書く理由

……なにかキャンペーンがあるのを見て、よし、おれも書くかと思っていたら、応募期間が終了していた。

 

とはいえ、おれになにが書けただろうか。おれはもうそれについて書いてしまっている。

 

goldhead.hatenablog.com

 

おれが「ブログを書く理由」については、ぜんぶそこに書いてある。だから、もうことなんてなかったんだ。

初期衝動さえあればいい。その衝動がただひたすらにものを書くこと、だれかの目に触れさせること、それを持続させることにつながるのだから。最初の「公開する」ボタンを押した瞬間からそれは始まり、あなたが息絶えるまでそれは終わりません。

……と、読み返してみたが、なぜエミリー・ディキンソンの詩を使って孔雀を殺しているのかよくわからない。いや、よくわからないのは、そもそも初期衝動ってなんだ? ということだ。

 

書くことってなんだろうか。ちかごろ、ただひたすらに書いて、酒を飲み、女とセックスして、競馬をして、それでも、なにより、書いて、書いて、書きまくった人間の書簡集を読んだ。

 

チャールズ・ブコウスキーの書簡集である。チャールズ・ブコウスキー。1920年に生まれる。1994年に死んだ。

 

 

 

これはブコウスキー研究者でもある著者が、ブコウスキーの生前の手紙(死後の手紙というのはないか)の中から、未公表であったもの、そして書くことについて、書かれたものについて収集したものである。スケベおやじ、オールドパンク、傷つきやすい心とでかくていかつい巨体の、それでも叡智に溢れた詩人。なにより、書くことにとり憑かれた狂人。

 

 誤解しないでほしい。基本的に書くというのは金儲けの手段としてはとても厳しいとわたしが言っていても、それは酷い人生だという意味ではない。うまくやっていけるのでありさえすれば。タイプライターで生計を立てるというのは奇跡の中の奇跡だ。

「ジョン・マーティン宛 1970年」

 

ブコウスキーは長く貧困のなかにあった。詩を書きつづけ、投稿しつづけながら、低賃金のポスト・オフィスで働きつづけた。タイプライターで食えるようになったのは、中年になって以降だ。

 わからないよ、A・D、自分がどうやってこれたのかよくわからない。酒にはいつも救われた。今もそうだ。それに、正直に言って、わたしは書くことが好きで好きでたまらなかった! タイプライターを打つ音。タイプライターがその音だけ立ててくれればいいと思うことがある。そして手元には酒がある、スコッチと一緒にビール、マシーンのそばには。そしてさっきまで吸っていた葉巻の吸い差しを見つけると、酔っ払ったまま火をつけて鼻先をやけどする。わたしは作家になろうと必死で努力していたわけではなく、ただ自分がご機嫌になれることをやっていただけの話なのだ。

「A・D・ワイナンズ宛 1985年」

 

とはいえ、有名になるために必死に努力していたわけではない。ノット・クエストフォーフェイム。そこにあるのは書きたいという思いだけ。酒があればなおさらいい。

 

 何もかもいちばんうまくいくのは、何を書くのが書き手が決めるのではなく、書かれることが書き手を選ぶ時だ。それは書きたいことがいっぱいで書き手が正気をなくしてしまっている時、書くことが書き手の耳の中、鼻の穴の中、指の爪の先までいっぱい詰まってしまっている時。書く以外何の希望もなくなってしまう時。

 かつてアトランタで、タール紙が剥き出しの部屋で飢えて、凍えていた。新聞紙が敷物代わりだった。ちびた鉛筆を見つけたわたしは、新聞紙の端の余白にその鉛筆で誰も読むことはないだろうと思いながら書き込んでいった。狂気が癌のように蝕んでいた。作品でもなければ計画を立てたことでもなく学びの一部でもなかった。ただ書く。それだけ。

「ウィリアム・パッカード宛 1990年12月23日」

 

「何もかもいちばんうまくいくのは、何を書くのが書き手が決めるのではなく、書かれることが書き手を選ぶ時だ」というのはすごい。ただひたすらに書いてきた人間だけが語れることかもしれない。あるいは、何かを書き始めてすぐに、あるいはそれが最初に訪れた人もいるだろうか。

 

それはそうと、新聞の余白に、誰にも読まれないだろう言葉を書いていったブコウスキー。気取りでも、強がりでもなんでもなく、ただ書かずにはおられなかった。

 

 ヘンリー・ミラーが有名になって書くのをやめたという記述を読んだ。それはおそらく彼は有名になるために書いていたということだ。このことがわたしにはわからない。紙の上に綴られる文章以上に魅惑に満ちて美しいものなど何もない。そこにすべてがある。そこにすべてがあった。書くということそのことこそが最大の褒美だ。有名になってからが単なる続きでは終わらないのだ。誰であれ書くことをやめた作家のことを私はまったく理解できない。自分の心を取り出して糞と一緒に流してしまうようなものだ。誰にいいと思われようが思われまいが、私は息を引き取る最後の瞬間まで書くことだろう。

「ジョン・マーティン宛 1991年7月12日午後9時39分」

 

手紙の日時が分刻みまで明らかになっているのは、あのブコウスキーが晩年はマッキントッシュを使っていたことによるだろう。たぶん。そしてまた、ブコウスキーが死ぬ最後の瞬間まで書く、というのは大げさな物言いでもかっこつけでもないだろう。そこにはもう目的すらないように思う。畢生の傑作を書くとか、大作を完成させるとか……。書くこと自体がほかでもないご褒美なのだ。ここまでして書いた。書いたものはいろいろな言葉に翻訳され、死後なお読まれている。おおぜいの人間に影響を与えて、次のその次の世紀まで名前は忘れられないかもしれない。本人が望んだかどうかはべつの話だ。

 

……って、これではまだ初期衝動の説明になっていないな。なんだろう。ここからは、おれの考え話だ。だれから教わったわけでもないつもりだ。ひょっとしたら、だれかの影響を受けているか、受け売りかもしれないが、もう覚えていないので許してほしい。

 

表現するということは、「わたしには世界がこのようにみえています」と人に伝えることだと思う。もちろん、世界は視覚的なもの以外によっても構成されている。音も匂いもさわり心地もある。なので「みえています」は、幅広い意味でとってもらいたい。「わたしは世界をこのように感じています」といってもいいだろうか。

 

それが、人類というものの表現というものの初期衝動ではないかと想像する。洞窟に壁画を書いたやつも、「おれには鹿がこんなふうにみえたんだ」と書いて見せたんじゃないのか。みえた世界を絵に描き、音であらわし、そして文章を書くやつもいる。洞窟に画を書いた最初の人類も、「X」にポストしているやつもまったく一緒だ。

 

おれにみえている世界。世界のそのものを書く。世界の背後にあるなにかを、フィクションに託して書く。自分にみえる言葉そのものを、言葉として書く。書きたいと思う。書かずにはいられない。

 

そしてどうしたいのか。畢竟、それを人に伝えたい、あるいは共感してほしい。なんとも凡庸な答えになってしまった。いや、共感してほしいだけなのだろうか。それもちょっと違うような気がするな。おれのみている世界なんて想像もしたこともないやつに、それを叩きつけてやりたい、という気持ちはないだろうか。嫌な思いをさせるのも、「伝える」ということだ。自分がなにかをみて嫌な思いをしたら、それはそれで「伝わった」のだ。そこに共感は不在で、不在なら不在でそれでいい。人の意見が変わろうと変わるまいと、一方通行同士のコミュニケーションとなる。地獄とは他人のことだ。

 

 わたしは基本的にはいつでも一匹狼だ。生まれつきであれ、精神を病んでいる者であれ、どういうわけか人の中にいるのが苦痛で一人でいる方が楽なやつであれ、そんなやつらが必ずどこにでもいる。あなたは愛さなければならないという言い方にはもううんざりで、愛が命令になると、憎しみが快楽になると私には思え……

 

話が遠くなってきたようにも思う。

 

われわれ人間は、伝えたいのだ。いろいろな手段によって、だれかたった一人でもいいから、自分のみている世界を。その手段は人によって違う。ときにそれは国宝などと呼ばれて尊敬されることもあるし、最悪の暴力犯罪という形であらわれてしまうかもしれない。そもそも、そういう生き物なのだ。どんなにか細い声でも、ありきたりの話でも、その人以外には理解できない形をしていても。「そんなもの自分にはない」という人にも、「自分にはない」という自分のみている世界があって、それはやはりだれかに届けられたがっている。「それ」はあなたではなく、「それ」なのだ。

 

「それ」の名前を、たとえばただ「情報」と名づけてしまうのもなにかつまらない。今は名無しの「それ」にしておこう。「それ」と対峙するとき、人は自分について考えてなくてはいけないし、世界について考えなくてはいけなくなる。考えるのではなく、感じる、なのかもしれない。世界は自分の脳の中にあって、脳は世界の中にある。

 

こんなことを書いているおれは、「それ」と対峙しているのだろうか。あるいは、手を繋いでいるのだろうか。よくわからない。けれど、おれには歌も歌えないし、上手に踊ることもできないから、こうしてキーボードを叩く音を聞きながら、出てくる言葉を文章という形にして、あなたにみせている。それ以上でも、それ以下でもない。今、孔雀が死んだ。もうそろそろ寝る時間だ。おれは今晩、人類の歴史でも夢見ることにする。あんたはどうする?

 

goldhead.hatenablog.com

 

goldhead.hatenablog.com

 

goldhead.hatenablog.com

 

……以下、『On Writing』のなかにあったジョン・ファンテ宛の手紙(!)や、おれも大好きなセリーヌ(むろん、ブコウスキーの影響だが)についての記述をいくつかメモする。好きな人だけ読んでください。

この続きはcodocで購入