プロ棋士の怖さについて話す。先崎学『うつ病九段』

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寄稿いたしました。

ど素人の将棋観戦の楽しみです。自分でもなにが面白いのかよくわかっていなかったので、文章にしてみました。

読んでみて下さい。

そんでもって、将棋もちょっと観てみてください。

駒の動かし方わかってりゃ、だいたいわかる!

……というわけで、読んでくれました?

読んだよね?

 

さて、ちょっとプロ棋士の怖いところも書いておこう。プロ棋士というか、将棋界というか……。

 

 

先崎学うつ病九段』これである。先崎学と言えば、羽生世代で十代棋士になり、棋戦優勝もあり、A級在籍もある九段である。そして、将棋の才能はもちろん、その文才で知られる棋士だ。解説も面白い。才気煥発の人である。

 

それが、理事として対応する『AI不正疑惑問題』や、監修する『3月のライオン』イベントなどに飛び回っているうちに、いきなり「うつ」になる。抑うつ状態ではなく、診断がくだされ、入院するレベルの「大うつ病性障害」、すなわちうつ病である。

 

その、当事者としてのうつ病の状態、回復経過、そのときの心境、行動などについて、さすがの観察眼をもって、見事に描いている。「躁うつ病3級」のおれが、その「抑うつ状態」について、個人差はあれどほとんど「そのとおり!」と言ってしまうくらいのものである。

 

して、この本は「うつ病の当事者がたまたま文才のある人間であって、なおかつその治り終わりごろに執筆をはじめた」という理由で、うつ病について知りたい人にはおすすめの本である。

 

だが、一方で、将棋指しの世界、その苛烈さ、特異性をよくしらない人が読んだら、ちょっと面食らうところがあるのも確かだろう。本人の恵まれた環境(兄が大学教授で医学博士の精神科医で、サポートする家族もあり、財力的にも恵まれている)などもあって、受け入れられないよという声も目にするが、やはり将棋指しの怖さがあるんじゃないかと思った次第。

 

 やめよう、と思った。生活はなんとかなるさ。引退して将棋教室でもやるか、とも考えた。あとは「棋樂」という格好の場所もあるではないか。そうすれば闘わずに済む。負けずに済むのである。

 そんなこんなでうちひしがれている時に、あっとなった瞬間を、忘れることはないだろう。

 将棋が弱くなるのだ――。

 引退したら楽ではある。しかし、このまま引退しようと、あるいはこの世界を離れようと「将棋が弱くなる」ことに変わりはないのだ。

 私は六歳で将棋を覚え、九歳でこの世界に入った。十七歳でプロになって三十年。だらしなくて常識がない私は、自分は将棋が強いんだという自信だけで世の中を生きてきたのである。勝ち負けとか金とか以前に、将棋が強いという自信は自分の人生のすべてだった。その将棋が弱くなる。

 考えられなかった。それだけは絶対に許せなかった。

 芸を落としてたまるか、と思うと涙が出た。

 将棋指しは年齢を重ねるにつれ弱くなる。これはプロの世界だからあたらい前であるし、仕方がなことだ。だが、病気一発で弱くなるなんて――。

こうした将棋への信念というものが、わりと早め(と思われる)うつ病寛解につながったに違いない。戻るべき場所、他にない場所に戻る。その意志である。これがある人とない人では、やはりこの手の病気の回復には違いがあるのではないだろうか。先崎学奨励会に戻ったような気持ちで、研究仲間や若手と将棋を指しまくるようになる。もちろん、いちばん重症のころは「七手詰め」の詰将棋すら解けなかったし、入院していた病院の患者のアマ初段程度とおっかなびっくり指すくらいだったのだが。

 

著者本人はこう書いている。

医学的な見解は知らないが、私は将棋でうつを治したのだ。

 

とはいえ、将棋界は甘くない。

中村太地王座(当時)との練習対局だ。

 二局目はスタートから私がうまく指して、中盤ではっきり優勢になった。これはいけるかなと思って顔を上げて中村君の顔を見ると、必死の形相で歯を食いしばってる。一瞬ちらっと思った。あっさり諦めてくれてもいいのに――。

 だが、この論法は一流の棋士には通じない。相手がお世話になった先輩「だからこそ」一所懸命に指し、その人が病気なら「なおさら」頑張るのがこの業界の礼節なのだ。信じられないような感性かもしれないが、そんな世界だからこそ、たかがゲームなのに大勢の人間が将棋だけで食べていけるのである。

 

さすが米長門下である。正直、今の二十代前後の棋士がこういう感性を持っているのかどうかわからない。……いや、地獄の奨励会を突破してきたのだから、そういう勝負観はあるかもしれない。だからこそ、「たかがゲームなのに」、大勢の人を魅了し、それによってお金があつまり、プロ棋士という職業が成り立つ。人生を賭けているからこそ、小さな駒の動き一つで人々は感動する。

 

さて、先崎九段が休んでいた間というのは、ちょうど世の中に藤井聡太ブームが巻き起こったときと重なる。なにやら皮肉な話である。将棋人気のために尽力してきた先崎学が姿を消していたとき、いきなりこんなことになる。まあ、またそれもこの世の中の妙味だろうか。

 

しかし、おれが先崎学のことが好きになったのは、二十年以上前に読んだ彼の文章であった。それは、大学の将棋部との対抗戦のような企画についてであった。大学将棋部ともなると、ハイクラスのアマがいる。対局当時、先崎がプロになっていたか、奨励会だったかなどは覚えていない。ただ、先崎はその対局を思い出して「将棋しかない自分が大学生なんかに負ける訳にはいかない」という深い覚悟とプライドを述べていた。それを読んで、将棋指しはかっこいいのだとおれは思った。たとえAIが人より強くなったとしても、将棋で食っていく特別な世界が続くと信じる。

 

漫画やドラマもあるようです。