お互いアルコールが入った時、私が「いい眼鏡ですね」とほめると、森下は当然のように「将棋に勝つ眼鏡ですから」と真剣な顔で答えた。私は意表を突かれて「どこが、どう」とは聞けなかった。しばらくしてまた会った。洋服の話になると「これは将棋に勝つジャケットです」とも言った。
森下にとって将棋に勝つことがすべてだ。日頃から研究を怠らず、対局の前日に精神と体調を整えることが将棋に勝つための生活だ。だから、将棋に勝つ眼鏡もあれば、将棋に勝つスーツもあり、靴から、髪形、すべてがそうだ。
将棋に勝つ生活を突き詰めると物にたどりついた。当時はそこまで思い込んでいた。
『戦う将棋指し (宝島社文庫)』
この森下とは、‘将棋界一の律儀者’森下卓である。森下卓の師匠は‘東海の鬼’と呼ばれた真剣師(賭け将棋)あがりの‘妖刀’花村元司である。花村には幾人かの弟子がおり、その一人が窪田義行である。その窪田義行が秒読みに対して「はい」と返事することについて、解説の松尾歩が兄弟子の森下を引き合いに出していたのである。上記の本によれば、森下の棋風が受け将棋なのは、稽古で花村の‘妖刀’を浴びつづけたからだという。一方で窪田は「独特の感覚を持った振り飛車党」で、「妖しさ満点窪田ワールド」であるらしい。窪田ワールドは対局前のインタビューから発揮され、「窪田の奇跡」をお見せしたいと述べていた。対局中も体を揺さぶり、何度もうなづいたり、顔を押さえたりしつつ、ワールドを発揮していた。そのワールドに対峙していたのが、俺の考える名前のかっこいい棋士ナンバーワンであるところの阿久津主税である。俺の知っている阿久津はまだ四段か五段のころであり、特進昇段だの、NHK将棋講座で「アッくんの目ヂカラ」だのは知らないのである。しかし、この対局では目力が発揮されて、身の回りになにかよくわからないものを配置した窪田ワールドを撃破したのである。窪田は「10年前に流行った」藤井システムを採用して、金が玉頭目指して進撃するところで、▲1四歩、これである。いかにもプロらしいという手である。それにはそう感じられた。「そんな手で間に合うのか」というところをスッとやって、大丈夫だ、問題ない。いかにも見事な感じがする。俺自身に棋力というものは皆無だが、その見事さは伝わってくるのである。結果、窪田ワールドは攻め手を失い、投了。素人目にはもうちょっと進めてもらえるとありがたいが、しかし早い投了もプロらしいといえるのである。ちなみに、阿久津主悦は島朗に投げっぷりのよさを評されるほど投げるのが早かったらしい。
……というわけで、俺はNHK杯将棋トーナメントを今期から見はじめたわけだけれども。理由はなんだったか、たまたま昨期の決勝戦を見たからだったか。羽生善治対糸谷哲郎である。糸谷哲郎と言われても、俺はさっぱり思いあたるところがなかった。調べてみると‘関西若手四天王’の一人らしい。こうなると止まらないのであって、いろいろの棋士の情報をWikipediaで読み始めることになる。つきることのない興味。そして上記の別冊宝島の文庫など買い、昔持っていた鈴木英春の「かまいたち戦法」の本も買い、米長の将棋入門を買い、アイフォーンで将棋アプリばかり起動させている毎日というわけだ。
将棋のなにが面白いのか、棋士のなにが面白いのか、さてどうだろうか。よくわからんが、俺にはおもしろくてたまらないというところがある。別冊宝島の執筆陣も競馬系のライターが参加しており、また、ロキノンの林陽子が行方尚史のインタビューなどもしていて、上記阿久津なども競馬好きであったりして、また棋界の博打親和度は異常なほどに高く、どこか相通ずる気配があるのかもしらん。そういう意味では、来週のNHK杯には、競艇好きすぎで知られ、俺の地元に近い深沢高校出身の‘お化け屋敷’屋敷伸之登場であって、これも見逃せないのである。できることなら、NHK杯以外にもテレビ対局が地上派で流れてくれるとうれしいのだが、まあ仕方ない。おしまい。
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