ラストの手紙の意味―宮崎駿『君たちはどう生きるか』への対策と印象と感想

 

宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を観てきた。公開から四日目のことだ。おれはこの映画を当然観るつもりでいた。宮崎駿映画だからだ。ビッグウェーブには乗るのが基本だ。ちなみに、この記事のタイトルでも今まで書いた「宮崎」はどちらも「宮崎」としたが、本作ではあくまで「宮﨑駿」名義になっている。エンドロールで息子は「宮崎吾朗」だったのに、本人は「宮﨑」だった。でも、なんかこの「ざき」は文字化けしそうな旧世代の人間なので、以後も「宮崎」にする。

 

いきなりエンドロールの話をした。映画の内容の話を一言も語っていないのに。まあこれで「ネタバレだ!」と怒る人はいないと思う。たぶん。

 

というわけで、本作についておれも「ネタバレ」に気をつかった。「一切宣伝しません」というジブリの方針に乗ることにしたのだ。そうまでして隠し、隠し、本当になんにも漏れてこないなとなって、俄然この映画に対する興味が増した。そして、元来「ネタバレ」というものを極度に嫌う自分にはぴったりだから。

 

とはいえ、一緒に行く女の人の予定があり、金曜公開から土曜、日曜を乗り越え、そして月曜、なのである。はたしておれはネットで致命的な情報を目にしてしまなわないか。幸いにも、土曜日と日曜日だ。おれは基本的に、土曜日と日曜日にあまりネットに接続しない。はてなブックマークもほとんど見ないし、Twitterも競馬の時間に「シンヨモギネスがんばれー」などとつぶやくくらいだ。

 

それでも、いくつか感想エントリのタイトルは見た。見たが、決定的なのはなかった。良し悪しについて述べられているものはあったが、だれがどう思おうが内容には関係ないのでそれはどうでもよい。

 

そして日曜日の夜である。酒で濁った頭でおれはこう考えた。「ここまで情報を遮断できたのだから、万全の状態で観たい。だったら吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を読んでおくべきではないのか」と。

 

とはいえ、酒で濁った頭のおれでは今から一冊本を読むのは面倒だ、ということになる。青空文庫にもない。そこで酒で濁った頭のおれは明暗を思いついた。漫画版を読めばいいのではないか。

 

Kindleでポチ。これで読める。いい時代だ。そして読んだ。読んでみて驚いた。主人公のコペル君と無職のおじさんの手紙部分については、原作そのまま載っているのだ。ようするに、字を読まなければならない。競馬に負けて心が折れ、酒で頭が濁っているのに、少し面倒だ。それでもおれは読んだ。今、読むために買ったのだから、読まねばならんだろう。吉野源三郎もおれにはこう書くかもしれない「君は、なにを考えて生きているのか」。

 

ところでおれはこの本を、子供の頃に勧められたことがある。勧めたのはだれか。父である。「これはすばらしい本なので読むべきだ」と。おれはそんな説教くさそうな本を読むことはなかった。読んでいたら、少しはまともな人間になっただろうか。なったかもしれない。おれは酔っ払って漫画版を読んだだけだが、なるほど今も力を失っていない本のように思える。

 

とはいえ、最近父は宮崎駿のこの新作タイトルを知って、「宮崎駿もしょせんはスターリニストだ」と言ったらしい。おれは『君たちはどう生きるか』のどのあたりにスターリニズムを見るのかよくわからない。新左翼の党派性の問題だろうか。

 

まあ、そんなわけで、予習は万全という気持ちで映画に臨んだ。IMAX。客の入りは空席を除けばほぼ満席。客層は老若男女まんべんなくという感じだったろうか。とくに年寄りが多かったとか、子供が多かったとかは感じなかった。

 

上映中、おれは濁った頭(酒が入ってなくても濁っています)で、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』との関連性などを考えていた。正直、軽く眠くなったりもした。寝落ちはしなかった。後半になると意識はより集中し、終わったときは、「お、ここでか。もっと観ていたくもなる、という具合。

 

うーん、なんと言ったらいいのか。一緒に観た女の人の感想も「声の出演が豪華だったね」だった。うん、この作品、いつものジブリと同じく専業声優さんが起用されていないが、どの声にも違和感はなかったように思う。

 

でも、内容についてはあまり会話にならなかった。まったくわけがわからない、というほどでもないし、いくつかわからないシーンはあるとはいえ、シュルレアリスムのように無茶苦茶じゃないんだ。

 

では……と、内容の話をしたいが、まだ書くのは早いように思う。おれ自身が重度の「ネタバレ」嫌なタイプの人間(正しい、正しくないではなく、趣味の問題だと思う)なので、今回はここまで。

 

と、言いつつ、脳が濁っているので書かなければ忘れるのでいま書く。いま書いて、もう観た人に読んでもらいたいが、読んでもらうほどのものにならないのは確実なので、とりあえず有料記事にする。読む価値のあやしいものにあえて値段をつける斬新な手法だ。しかもこれは一週間くらいしたら無料にするだろう。さあ、帰ってくれ。

 

 

 

感想文はあらすじから書く、というか、あらすじで埋めてごまかすのが感想文の常道。ならばあらすじから堂々とネタバレを書く。

 

と、思ったが、あらすじってどうなるんだ。時代は戦中。空襲で母を失った少年が、地方へ疎開する。疎開先には父の「あたらしい好きな人」が

いた。少年の母の妹である。お腹にはすでにきょうだいがいる。

この叔母であり義母がひじょうに美しく描かれている。亡き母へを考えたときの感情と、やや異性として惹かれる……というには、まだ主人公

少年は子供だが、そんなものも少し含まれているのではないかと思えなくもない。

主人公の父は工場をやっている。軍用機のキャノピーを造っている。並べられたキャノピーは少し王蟲のように見えた。母方の家も裕福で、使用人もたくさんいる大きなお屋敷だ。屋敷に足を踏み入れた少年を出迎えたがのがアオサギだ。

 

……って、面倒くさいのでやっぱりあらすじやめます。公式サイトでもパンフレットでも読んでください。え、ないの?

 

まず言っておきたいが、おれはこの映画のアニメーションはすごいと思った。作画というのかどうかわからないが、ビュンビュン動いている。ヌルヌルではない。そのスピード感は心地よかった。冒頭の、主人公少年の着替えに戻るシーンとか、そのあたりから「お、すごいな」と思った。音楽ももちろんよい。そのあたりは確実だろうし、「宮崎アニメ」の集大成というか、いろいろの過去作っぽいところも多く、そのあたりの濃度はある。

 

まあ、話に戻る。そんななかでやや突然出てくるのが吉野源三郎『君たちはどう生きるか』だ。亡き母が、いつか主人公少年に読んでほしいと遺したものである。これを偶然読み、主人公少年は涙する。本を読んだ前と後で、なにかが変わったのだ。

 

……なにが変わったの? これは正直、なにかとても微妙なラインで描かれているのか、それともそんなん描かれていないのか、初見ではわからなかった。ここでおれは一夜漬けの『君たち』(以下吉野源三郎のやつをこう書きます)のことを思い返したりして、少し気がそれた。というか、最後まで『君たち』のどのエピソードに対応しているのか、などと考えてしまうところがあり、肝心なところを見ていない可能性すらある。

 

たとえば、大おじ様が世界を作り、そして失うというところから、ナポレオンのエピソードを想起したりもした。

あるいは、

「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう」

などと。

まあ、関係ないけどね。

でも、『君たち』的なエピソードとしては、主人公少年が疎開先いじめのようなもので喧嘩したあと、自分で自分の頭を石で打ち、けっこうな怪我をする。頭からだらだら流血の自傷行為だ。これはいじめっ子たちを陥れようとする行為なのか、ただ学校を休む口実が欲しかっただけなのかわからない。わからないが、これは『君たち』のコペル君的な行動だ。

 

そして、その傷が一つの、なんだっけ、スティグマというか、印になる。同じ印を持つ者も出てくる。人間の悪意の象徴のようなものだ。たぶん、この映画にとって大切な要素だと思うが、それほど最重要という扱いもされない。なんかそんなんが多い映画でもあり、ある意味でとっ散らかっているといえる。

 

しかしなんだろうね、コペル君的エピソードとか書いたが、この主人公はかなりコペル君とはかけ離れているように見える。良い子ではあるものの、わりと暴力的で強く、計算もできるように見える。なにかジブリ的ではないように見えるところがある。良い子なのが化けの皮、ではないのだが、けっこう強い感じがする。そのあたりもまた、なにかこの映画の独特の空気を作ってはいないだろうか。たとえば、『君たち』を読んだ前とあとで、自分中心の世界を反転させるようなコペルニクス的転回があったのかというと、あったのかな? という感じ。どうだろう、そのあたりはもう一度、しっかり見てみたいというところもある。

 

というわけで、気弱な少年が成長していく話、にはあまり見えない。なんというか、そういうわかりやすい筋書きとも遠いような感じもする。日常から非日常へ。根拠のようなものがない世界が展開していく。夢の世界のようでもある。ファンタジー世界ならファンタジー世界で、この現実とはかけ離れたことが起ころうが、その世界内での秩序というものがある。その点で、この映画には秩序があるかというと、ちょっとようわからん。

 

わからんといえば、たとえば『ポニョ』なんかまるでわからん。それにくらべると、この映画はわかる。わかり方にもいろいろある。

 

たとえば、あの世界を作った大おじ様を宮崎駿自身に見立てるとか、そういうのだ。正直、おれは『君たち』の方に意識を寄せていたので、「これは宮崎駿!」とかは思わなかった。ただ、失われるものの悲しさを感じただけだ。だが、言われてみるとそうかもしれない、などと思う。そこからさらにディテールを寄せて考えるというのは、興味深いけどそればかりではない、なんて気持ちにもなる。

 

ただ、「君たちはどう生きるか」とこの作品で問うているのは大おじ様ということにはなる。もう世界は失われる。どうするのか。「どう生きるのか?」。でも、あまり大おじ様はそれを強く問うてくる、説教してくる感じもない。大おじ様のラストシーンを覚えているだろうか? おれは覚えていない。ただ、若き日のお母さんが「ありがとう」と言って終わっただけにも見える。ただ、消え去るのみ、なのか。

 

主人公少年は、汚れのない新世界を望まなかった。そして現実へ帰還することを選んだ。それがラストの決断、クライマックスということになるだろうか。閉じられた世界のペリカンもインコも自由になって、それぞれ外の世界を羽ばたいていく。『君たち』でも冒頭は人間が世界を構成する一つ一つの分子であるという発見から始まる。世界を構成する一つ一つ。大おじ様一人によって構成される世界から、開かれた世界へ。その分子へと。

 

そこで、主人公少年はやっかいな存在であったアオサギも「友達」だという。分子の一つ一つとして、関係というものがあり、その関係を肯定する。

 

映画の本当のラストは、さらに三年後、主人公少年一家が東京に戻るシーンだ。主人公少年は果たしてあの異界のことを覚えているのかどうか。わからない。ただ、かばんのなかに『君たちはどう生きるか』を入れる。そこにちらりと映っていたのは、手紙である。だれからだれへの手紙だろうか。ちらりと映っただけだ。ただ、おれにはそれが、疎開先でできた友人からの別れの手紙であると思いたい。主人公少年がどのように現実に戻ったのか、どう生きたのかは描かれていない。しかしながら、アオサギすら「友達」とした選択からすれば、コペル君的な生き方をしていたのではないか。おれはラストの一瞬にそのようなことを思った。一夜漬けで『君たちはどう生きるか』の漫画を読んだおれには、そのように思いたいと思った。

 

とりとめもないが(鳥だらけの映画だけに)、以上。

 

(このあと2800字以上あるというのは、はてなブログのエラーなので無視してください。単なる投げ銭です)

 

この続きはcodocで購入