映画『怪物』の感想

二週間前くらいに、映画『怪物』を観た。海外で賞もとった評判作だ。構成は独特だった。息子のいじめ被害、教師による虐待を疑うシングルマザーの視点、虐待を疑われた教師の視点、最後は子供の視点、となる。一つの視点ではそう思っていたものが、別の視点ではまた変わって見える。

 

結局のところ「怪物」とはだれなのか、なんなのか。作り手のメッセージとしては、その「怪物」を探してしまう、受け手自身なんですよ、という話になる。すなわち、この映画を見て「怪物」はだれだったのか考えてしまうわれわれが、いろいろな事情のある人々を「怪物」にしてしまうということだ。

 

そのように、この映画の登場人物たちはさまざまな事情を抱えている。さまざまな事情とともに、世間では常識とされている観念も抱いている。その常識がある人に向けられたとき、それは暴力にもなりうる。複雑な構成をしている。この世界の複雑で、ときには面倒くさいところを煮詰めたかのようだ。

 

これが、たとえば性的マイノリティ(を考える)という立場「のみ」から考えると、終わり方に不満が出たりするかもしれない。あるいは、その子が放火犯であるとほのめかすことにすら納得がいかないのかもしれない。が、別の視点もある。教師はたぶん発達障害に分類される。そこからの立場もある。話はそう、単純ではない。

 

なんともいえない、という感想を抱く。「中村獅童は怪物だろう」とだけ言えるのかという話だ。息子に当たり前の性的役割を期待する安藤サクラだって怪物だろうし、となる。かといって、子供たちが単にイノセントな存在として描かれているわけでもない。発達障害を持って生きている人には、子供の嘘によって陥れられるところが耐えられないことかもしれない。

 

……などと、なにか真面目な話ばかりしてしまってもなんだろう。たとえば、これを少年愛映画として受け止めることも可能であろう。そういう見方をすれば、それはそれで、そんじょそこらのそういう映画には太刀打ちできないだけのクオリティがある。それは保証できる。保証したところでなんだというのか。

 

ただ、いずれにせよ、「なんともいえない」という感想を抱くことができる映画だ。それはそれで得がたい映画鑑賞体験と言えるのではないか。なにか世界で賞をとるだけの脚本だし、それを完成させた映画である。諏訪湖まわりの地方都市の印象も悪くない。

 

なんとなく感想を書けないでいたけれど、書いておきたいと思ったので書いた。ちなみに、この記事はこの日記初の有料記事である。有料部分には、だれが「怪物」かということではない、だれが「一番かわいそう」だったのかを書く。たいした内容ではないが、映画を見た人が気になったのなら開いてほしい。以上。

 

原作は未読。

 

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