アメリカザイフリボク(ジューンベリー)の花は短い。そしてもう実ができようとしている。
というわけで、図書館へ本を返しに行った。どんな本を借りていたのか、メモをする。
トルストイの懺悔。作家として大成功してもうウハウハザブーンでいいはずのトルストイが、「生きるってのはなんだろう? 人生にはなんの意味があるんだろう?」と思い悩み、「もう死ぬなら今しかねえ」くらい自殺に引き寄せられながらも、必死になにかを追求する話。意味を求めて科学、哲学、そして身近にある正教をたどるも、どうにも救われない。しかし、最後にたどり着いたのは、やはり正教なのだが、それはトルストイのような高い階級にある人間、知識層にあるそれではなく、ロシアの平凡な民衆の生活のなかに息づくそれであった。
なお、その後、トルストイはロシア正教会から破門されるようななにかを書くらしいが、そのあたりは難解で長そうなので気が向いたら、ね。あと、露土戦争について、「キリスト教は人殺しなんてすすめていないのに、正教会は兵士を祝福して……」みたいな嘆きがあって、これは今現在書かれていてもおかしくない一節であった。ビザンチン・ハーモニー。
しかし、なにやら、人生の盛りをすぎてその意味を追い求めてなにかを見つけようとするあたり、大川周明の『安楽の門』など思い出してしまったが(ふつうの人ならもっとメジャーなものを思い出すだろう)、人間生きる意味を探すのに早いも遅いもない。むしろ、「そんなこと考えるのは中二までだろ?」とか悟ったような顔をして生きている人間っていうのは、いったいなんなんだろうと思う。頭になにか入っているのだろうか。
アボカドなんよ、この樹。
後藤明生。というか、感想書いてないような気がするが、『オブローモフ』だ。おれは前に『オブローモフの夢』という本を読んだ。
『オブローモフ』というのは、地方に土地を持つぐうたらな貴族で、都会に住んでいるのだが、ずっと寝ている。自分で靴下も履けない。ただし、とても純粋な魂の持ち主でもある。それでも、横になってばかりいる。ここまで無気力でなにもしない小説の主人公もほとんどいないであろう。オブローモフシチナという言葉にまでなっている。訳者の安岡先生はこれを「オブローモフ病と訳すべきかもしれない」などと書いていたっけ。
で、この『オブローモフの夢』という本は、長編『オブローモフ』のうち、先に書かれたオブローモフの幼きころの田舎での夢を描いた「オブローモフの夢」の全訳と、全編の抄訳が載せられている。抄訳だけ読んでもおもしろい。ただ、なにやらディテールもおもしろそうで、岩波文庫の前中後の三冊読むかどうか。どうもずっと無気力でなにもしないやつの話なので、読めるかどうか。
あ、おれは後藤明生大好きなので『四十歳のオブローモフ』借りてみたけど、今回は読みきれなかったので、またいつか。
東海林さだおと森達也の本。これは、おれが「コロナ禍について書こうかなと思って借りた本。
ぜんぜん読まれなかったけど、今からでもできたら読んでブックマークでもしてください。
でもって、最初は東海林さだお読んだんだけど、あまりに分量が少なくて、もっと全体的にどうだったっけってコロナ本棚見たらあまりに多くて、そっから一般人側の視点かなというところで森達也借りた。森達也はもっと分厚い何冊ものコロナ禍の記録本を出しているみたいだったが、これも抄訳版ということになるだろうか。それでも、「ああ、Go To トラベルとかあったな」とかいろいろ思い出した。
おれは仕事でバラの銘柄と作出者とかについて、言葉だけでいくらか知っている。メイアンはフランスだし、タンタウとコルデスはドイツだし、インタープランツはオランダだ。だからといってなんだろうか。ちょっとはバラについて知っておくべきじゃないのかと、この本を借りた。この本はけっこうガチというか、硬派な本で、古代から現代に至るまでのバラと人間の関係を描いている。東洋も西洋もバラには昔から熱を上げていたし、その品種改良へのこだわりといったらないな。あとは、文化の面で、ローレンス・アルマ=タデマの『ヘリオガバルスのバラ』という絵画がよかったな。
それと、アメリカにBoenerという育種家がいるのだけれど、これの日本語表記が定まっていない。バーナーとかボーナーとかよくわからない。ところが本書では「ボアナー」となっていて、翻訳家がそうしているなら、今後はボアナーでいこうかと考え中。
これはネットでもおなじみの著者というか内容かもしれない。きちんと植物を育てられる人はいいよな、というか、家庭菜園とかあったら楽しいよなとか、あらためて思った。家庭菜園とは言わないが、庭……せめてベランダがほしいと。
おれは双極性障害なので、たまに知識をアップデートさせるというか、復習するというか、そういうことをする。この本はこの国の双極性障害の第一人者である加藤忠史先生の分厚い本で、分厚くて難しい部分も素人にはあるので読み飛ばしながら読んだ。
ところで、本の方では「双極症」と最新の語を使っているが、おれは「双極性障害」という言葉を使っている。「躁うつ病」からどういう変遷を経てこうなっているのかもこの本に書いてある。英語からの訳という面もある。しかし、おれはなんだ、「症」では軽いのではないかと思う派であって、それは自らスティグマにしているという面も指摘されているのだが、まあ自分は双極性障害という言葉を使う。もし、完治するような薬や療法が出てきたら双極症と呼ぶかもしれない。……でもなあ、一番通りがよくて、説明の必要もなく、病状をよく表しているのは「躁うつ病」だと思っちゃうよな。
ところで、この本にはこんなことが書かれていた。
躁状態における観念奔逸と、統合失調症における連合弛緩の鑑別は、観念奔逸は連想が豊かなためにどんどん脇道に逸れていくような思考であり、連合弛緩は思考のまとまりを欠くために文章相互、ないし単語相互間の意味的連関が不明確になっているような思考である。しかし、重度になるといずれであるかの鑑別は難しくなる。
双極性障害は大うつ病性障害よりも統合失調症と距離が近いと思うのだが(なにせ同じ薬が処方される)、こういうところもあるらしい。で、ところでなんだが、おれの文章がときどき暴走しているときって、この観念奔逸っぽいのかな、とか思った。わからんが。
小谷野敦の「とちおとめのババロア」というのはなかなかすごい小説なので、ぜひ読んで驚いてほしい。
……と、書いたうえでネタバレのようなことを書くと、大学教員がネットの出会い系サイトで出会ったのが、皇室の女王殿下であった、という話である。これが小谷野敦の高学歴恋愛もの(?)として描かれている。こういう形で皇室を描いた小説はないんじゃないだろうか。書きっぷりにも遠慮はないし、とてもおもしろい。
というわけで、彬子女王殿下のオールナイトニッポンなどを聞いておもしろかったという人は、ぜひ読んでみるといいと思う。
夢の話を調べていて、ホブソンという人が夢というのは完全にランダムな現象であるという脳科学の研究をして、フロイトを過去のものにしたみたいなことが書いてあった。でも、そのあと、ソームズという人が「ホブソンが夢の発生源としていた箇所を損傷した人も夢を見る」みたいなことを発見して、むしろ人間の夢の発生源は人間の欲望とかなんとかそういうのと同じ場所じゃないのってことになったらしく、そんで、なんやなんか本はないのかということで、なぜか「ニューロサイコアナリシス」の本を読むことになった。
ニューロサイコアナリシスはなんと訳したらいいのだろうか。神経精神分析か。そう、過去のものになっていたフロイトの考え方を脳スキャンだのなんだの脳科学の観点から再検討しようというか、そういう発想、のようだ。むろん、彼らはフロイトの信奉者などではないし、フロイトの解釈が正しいといっているわけでもない。ただ、夢やなにかを神経の働きから精神分析できるんじゃないのか、みたいな話だ。非常に興味深いようにも思えたが、なにせ専門的なので、どうにもわからんところはあるが、まあしかし、フロイトも現役時代に脳科学技術の限界みたいなことを述べていたらしいし、こういう形で精神分析が復活するのもおもしろかろう。しかしまあ、夢判断みたいなものはさらに過去のものになったわけでもあるが。
なんか多くなったのは、前回の分も少し混じってしまったから。今回これ全部返しに行ったわけではないです。
でもって、また本を借りたね。たまには買えよという話だが。
ああ、そういえばこの間、「図書館で借りるのもたいへんだし、買うか」と思って、本当にひさしぶりに一冊本を買ったんだった。
今さらながらの『コンビニ人間』だ。これはおもしろくて、返却期限もないのにすぐに読んでしまった。
まあ、そんなところで。
(この、京浜東北線の線路と高速道路が並行している姿すごくよくない? 横浜スタジアムの近くで見られます)
以上。