『空海の風景』司馬遼太郎

その1
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筆者はともかくこの稿を書きおえて、なにやら生のあるものの胎内をくぐりぬけてきたような気分も感じている。筆者にとって、あるいはその気分を得るために書きすすめてきたのかもしれず、ひるがえっていえばその気分も、錯覚にすぎないかもしれない。そのほうが、本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。
「あとがき」より

 『空海の夢』(松岡正剛)、『曼陀羅の人』(陳舜臣)ときて、ついに司馬遼太郎の『空海の風景』を読み終えた。勝手にこの三冊を以て一つの読書シリーズと思っていたのだが、これこそその掉尾を飾るにふさわしい本であった。馥郁たる読書の残り香に酔うばかりである。じっくり感想を書く時間がないので、適当に箇条書きのメモをする。

空海の成立
この本の冒頭は、空海の出である佐伯氏(=さへぐ人々)の検証から入る。「毛人そのもの」であるという可能性から。そして、彼を取り巻く環境が驚くべきほどの幸運に恵まれていることを「意外なほど堅牢な基礎工事」としている。なるほど、大学をドロッパウトしてフラフラしている空白期なども、一人山野を駆けめぐると同時に、少なからず後援者の存在があった。そうでなければ、そんなニートみたいなの(とは言い過ぎか)が、すぐに国家最高級のエリートである遣唐使の一員に加わることもなかったろう。ちなみに、この当時の遣唐使の船は、アラビアや中国の造船技術からは程遠い原始的なもので、空海が行って帰れたのも、傍からみれば幸運の一つだろう。
長安
曼陀羅の人』などは完全にここに絞った小説だったが、やはり空海が躍如する一番の場面は長安をおいて他にないように思う。この本でも、偶然にも世界文化の一つの集合点である長安がいきいきと描かれている。司馬遼太郎は、個人的な高野山体験から、高野山空海が晩年長安を思い出すために造った、山中の王国ではなかったという印象を持っている。確かに、当時において他に文明無しという存在であった大帝国の首都で、その才を広く認められた空海にとって、日本は小さかったのかもしれない。
理趣経
俺は理趣経について抱いた疑問があった(id:goldhead:20050830#p2)。これについて司馬遼太郎は後年の真言立川流の話も持ち出し、「空海の体系には、性欲崇拝を顕在化させる危険が十分内在した」と言った上で(司馬氏は左道化という言葉も使う)、この疑問に答えてくれた。

空海自身、これらの性欲の肯定―さらには性欲および性交こそ菩薩の位であるとする経文―について、どのように説いていたのか、かれの文章がのこっていないためによくわからない。(p.281)

 ということで、よくわからないのであった。大司馬の推測では、単なる比喩として片づけるのではなく、またそれを肯定するでもなく、理論の構成材としたのではないか、と述べるが、はたして。また、最澄との断交(正確には完全に縁を切ったわけではなかったようだが)の原因になったのも、その危険性故に、こればかりは借用させられなかったのではないかという推測もある。これで、一応は前の二冊で抱いた疑問は解けたような気がする。

最澄
やはり、空海を描く場合、いや、この本では空海の風景が描かれているのだが、どうあっても最澄は避けられない。そして、空海の側から見ると、最澄はやや損な役回りだ。先に帝の寵愛を受けて高い地位にあり、唐でも一大体系とは言えぬ(空海からすれば)天台宗を持ち帰り、たまたまオマケに持って帰った密教の一部が、先に日本で認められ……などなど。さらには密教で嫌うという筆授でのみ伝法を授かろうという態度(「越三昧耶」)を崩さなかったことなど、いかにも「わかってないっぽい」奴な感じの役回りになってしまう。しかし、それに対する空海の激烈な態度も
 忙しくて日記すら書けないとは。続きはいずれ書く。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20050919#p2