バッターボックスにはゴメス

バッターボックスにはゴメス。この際、君たちが思い浮かぶどのゴメスかなんてことはどうでもいい。そのゴメスは花粉症に苦しんでいた。目は痒くてしょうがないし、鼻はどん詰まりだ。右のバッターボックスにゴメス。花粉症のゴメス。ただ、ゴメスだって生まれてからずっと花粉症だったわけじゃない。ゴメスは少年時代を思い出す。かれは森で育った。ティンバーカントリー、そんな言葉がよく似合う森、森、森、森の中にゴメス。父親は馬鹿でかいチェーンソーで大木をぶった切った。響き渡る轟音、飛び散る木粉、ビッグ・ダディ。けれどゴメスには大木をぶった切るより、小さな木の棒でボールを遠くに飛ばすことに才能があった。紛れも無い才能だった。君らが知っているどのゴメスよりもだ。ゴメスは野球選手になった。野球をして、金をもらう。ゴメスにはなんの疑問もなかった。パパは喜んだ。ママも誇りに思うと言った。姉はカンザスで小さなドライブインの従業員をしている。姉には一人息子がいて、名前はカルロスといった。カルロスはまだ坊主だ。ただ、坊主の中でも飛び抜けて体がでかかった。勉強といったらてんでだめだったけれど、スポーツとなれば、ついていけるやつはだれもいないくらいだ。親戚の間では、カルロスがゴメスくらいのスターになれるんじゃないかと期待している。そう思わせる何かがあった。地区で何番目なんてレベルじゃない、州で何番目だというレベルだ。おまけにまだ花粉症じゃなかった。日本に行ったゴメスみたいに花粉症になっていたりしなかった。そうだ、ここは日本だ。カンザスでもワイオミングでもない。まわりには親切な東洋人ばかり。ただし英語を話せない。ただ野球は野球だった。ゴメスは投手が打たせまいとして放る速球をバックスクリーンに叩き込んだ。ゴメスは投手が打たせまいとして放る外角に鋭く落ちるスライダをうまく拾い上げてライト前ヒットにした。それでこそゴメス! 再三注意するが、このゴメスはこれを書いているやつの想像の産物であって、どのゴメスでもない。日本に来て花粉症になったゴメスだ。たぶん、右打ちだ。好きな日本食は? と問われると「スキヤキ」と答えるゴメス。ゴメスはスキヤキが好き。ただ、必ず鍋に入っている透明のヌードル、シラタキとかいうものは苦手だった。そういうのをこの国では「玉に瑕」って言うんだぜ、と同僚のロバーツが言った。「ボールに傷をつけたら反則だからな」。ゴメスは国に帰ったらスキヤキ・ハウスを経営しようと思っている。もう、さんざんにボールを打ち、ベースを踏んできた。もうそろそろべつの人生を考えるときなんじゃないのか。まだアメリカには有力なスキヤキ・ハウスはないはずだ。きっと人気になるに違いない。それに、おれのスキヤキ・ハウスのスキヤキにはシラタキを入れない。そいつは決まりきっているんだ。そう思った瞬間、マウンドの上の中継ぎ投手は投球モーションに入っていた。どうせ初球は外してくる。ゴメスが打つ気をなくす。しかし、本来は外すはずのスライダーが打ちごろのスピードと高さで飛んできて、キャッチャーミットに収まる。やっぱりおれのスキヤキ・ハウスのスキヤキにもシラタキを入れた方がいいのだろうか? ゴメスはそう思い直す。大きく深呼吸して構えなおす。