マイケル・S・ガザニガ『脳の中の倫理 脳倫理学序説』を読む

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

 いま、「のうりんりがく」って打って変換したら「農林理学」って出た。そういう分野もあるのだろう。だが、こちらは脳倫理学だ。

 病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福に関する問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野である

 と、こういうもんだそうだ。で、そういう立場から人はいつから人なのか、であるとか、肉体へのドーピングと脳へのドーピングについてだとか、法の裁きにおいて脳のメカニズムはどう扱われるべきか、究極的に人間の自由意志とはなにか……などなどの考察がなされている。著者曰く叩き台。中にはP・K・ディックのような近未来的な課題も出てくるが、そんなものはもう、明日、あるいは今日の話だろう。ちなみに、本文にディックが「側頭葉てんかんだったと見られる著名人」として、ドストエフスキールイス・キャロルフローベールニュートンアレキサンダー大王、カエサルなんかと一緒に並んでいた。訳者あとがきでも触れられていたけどね。
 で、著者の見解としては、基本的に楽観的というか、人類は間違った方向には進まないだろうというのが根底にある、ように読める。「思考のスピードが上がる」薬が使われるようになっても、政府はそれに口出しせずに人々の選択に任せよと。ところで、生まれ持った肉体に関して、よりによってランス・アームストロングの筋肉と足の長さの比率について触れているのは皮肉な話だ。本筋とは関係ないが。
 そして法について。

今や、正常な人間までもが決定論から逃れられないかのようである。私たちは、個人の責任という概念を捨てるべきなのだろうか。私はそうは思わない。脳と、心と、人の区別をつける必要がある。人は自由であるから、自らの行為に責任を負う。脳には責任はない。

 こうきたもんだ。この「脳と、心と、人の区別」。これはどうなのか。まあ、おれも精神科で「君が宅間守みたいなことしてもかばえないから」みたいなことは面と向かって言われてるわけだし。うーむ。脳が判断するその一瞬、ベンジャミン・リベットの研究、ADPの犯罪者……。わからんね。

脳は自動的に働くが、人は自由なのだ。私たちの自由は、集団のなかで人と人とが相互作用する場に見出される。

 と著者。

責任の有無を、脳神経科学者が脳のなかから見つけ出すことはけっしてないだろう。責任とは人が持つ属性であって、脳が持つ属性ではないからだ。責任は道徳上の価値観であり、ルールに従う同朋の人間に対して私たちが要求するものなのである。

 と著者。

人間はすべて、決定論に従うシステムの一部であり、理論のうえではいつかそのシステムも完全に解明されるだろう。だが、たとえその日が来ても、責任はあくまで社会のルールの中に存在する社会的な概念であって、ニューロンでできた脳のなかに存在するのではない。

 と著者。
 脳の中の倫理、じゃねえのかい。という話ではないのかい。このあたり、おれは浅学菲才、理解に苦しむ。曰く、検眼師は視力を測れても、社会的に盲人だとか、スクールバスの運転手に適任かどうか判断はできないのと同じだと。
 うーん、たしかに、やはりそのディストピアSFの発想になると……最近だと『サイコパス』ってアニメなんかが思い浮かぶが。あれは検眼師が視力に関するすべての決定権を握るように、脳科学が社会すべてを支配しているといった設定だった。それがよいことなのかどうか? たとえば、おれのような精神疾患、ただし軽め、とかいう中途半端な人間には、それに見合った居場所が与えられるようなシステムがあれば、ホームレスになったり、自殺しないで済むかもしれないなどと思ってしまうのだけれども。
 自由であることに対する恐怖心という個人的な感情が、おれのこのあたりの思考(なんて大したもんじゃないが)を曇らせている。かといって、たとえば本書にスカッとした回答があるわけじゃあない。ただ、人類共通の倫理がありうるのではないかという理想へ向かっての叩き台、だ。このあたりについて考えてみたい人にはおすすめだろう。
 あとは、脳がいかに偽の記憶を作り出すものであるとか、一度見たものについてかなりの精度で反応する脳指紋(空港で脳スキャンしてテロリストを見つけ出そうという意見が実際にあるそうだ)であるとか、言葉に関するディーズ・レディガー・マクダーモット法だとか、ウェグナーのシロクマだとか、そういった脳小話もいろいろあるので、そこらへんも面白いかな、とか。
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