富野由悠季『戦争と平和』を読む

 『ガンダム Gのレコンギスタ』の放送が始まった。3話まで観た。異様に面白く感じる自分がいるのに気づいた。おれのアニメ鑑賞趣味は三十路を過ぎてからのことで、せいぜい2、3年というところだ。しかし、考えてみると、ゴールデンタイムにやっていたようなアニメ(『ドラゴンボール』とか)を見なくなったあとの期間に、ぽつんと観たアニメがあった。とても能動的に、自主的に、楽しみにしていたアニメがあった。『∀ガンダム』だった。おれはファースト・ガンダムとほとんど同じ年に生まれた。ガンダム・シリーズを再放送なりビデオなりで観て育った世代だった。おれのどこかに、富野由悠季要素受容体のようなものが形成されていて、この「元気のG」はそれに激しくなにかをぶつけてきているんじゃあないかと思った。ガンダムシリーズと『キングゲイナー』しか観ていないのに、おれは知らず知らずのうちに富野由悠季から多大なる影響を受けているのかもしれないんじゃあないか。そんなふうに思った。
 というわけで、本を一冊読んでみた。ネットでたまにみる富野御大の言葉はどれもすばらしい。すばらしいのに、富野御大の本を読んだことがない(ガンダムシリーズの小説は除く)のはもったいない話じゃないの。で、本当はおれのなかの富野受容体(があるとすれば)は、映像論的なものに反応しているんじゃないかと思った。が、あいにく見当たらなかったので、この本を読んだ。

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

戦争と平和 (アニメージュ叢書)

 9.11をメーンテーマとして語った本だ。ツインタワーへのあの攻撃の後継はアニメ的と言えてしまうんじゃあないのか。そのあたりどうなんだ。そういう話だ。『∀』以後、『キングゲイナー』前というタイミングになるらしい(関係ないが、おれはなぜか『キングゲイナー』が先かと思っていた)。2002年の本だ。ずいぶん前といえば前になる。社会の情勢も変わっているし、富野監督の考え方も変わってるかもしれない。とはいえ、やっぱり面白いんだなあ。インタビュアー(座談会参加者?)の発言にも注釈にも興味深いことが書かれていたけど、とりあえず富野御大のお言葉だけいくらかメモしておく。

 だけども、この先は間違いなくハードウェアの戦争というのがなくなっていく。つまり軍隊というのが小規模なもので、ソフトウェア的に展開していくと思います。この展開の中で旧来の意味での「戦場」を形成できるかといえばできないんじゃないでしょうか。

 こんなのとか、そういう感じだよねというのと同時に、今話題のイスラーム国なんかを思い浮かべずにはおられない。おれには知見がないのではっきりしたことは言えないけれども、現状のイスラーム国というのは、なんというか、「新しい」という感じして、それはタリバンとかアルカイダとかとはちょっと違って、というか、リニューアルして出てきたのか……とか思ってんだけれど、どうなんだろうな。まあ、それは現実(と呼べるものがあればだが)を同時代として見ていくしかないのだろうけれど。あと本読んだりして。
 それはそうとして。

……ぼくにとっては、足立正生という人物は大学の1年先輩で、同じ学部でうろうろしていたから、とても身近なこととして考えられるんですよ。

 と、足立正生の名前なんかも出てきたりして。で、こないだ古本屋で買った「映画芸術2000年3月増刊号 足立正生零年」なんか同時に読んでたりして、ああ、繋がったな、とか思ったりね。ちなみに、その本で足立正生が2000年1月にベイルート、ルミエ中央刑務所で曰く。

……愛する知人友人と音信を断ち、まして愛してやまない妻子を後に放り出してまで、パレスチナ革命の戦場に馳せ参じた……それは、民族解放闘争、大衆武装闘争の現実を自分の血肉とするためだった、というような、ドラマチックな設問は、私の出発とはまったくほど遠いものだったのです。
 私の場合、もっと泥臭いリアリズムの計画というか、夢を持って出発した。私が独り先行してパレスチナ難民キャンプに行き、準備でき次第家族と合流して住みつき、そこで映画を含む全てを勉強し直そうというつもりだった。しかし、パレスチナ革命の現実は厳しく……
「夢見は多いほうがいい」

 さて、この足立の発想と行動と、こないだイスラーム国に行ってしまった人、行こうとした人との間になにがあるのか。うーん、わかんね。つーか、ガンダムの話じゃなかったのか。レコンギスタじゃないのか。

 人は人とコンタクトをとりながら、死ぬまでの時間経過を―言い方は人それぞれだと思いますが―耐え忍んでいくわけです。だけど、そのときにただ耐え忍んでいくよりは楽しみながら、うれしみながら死んでいける生のほうがいいではないか。そういう、ものすごく簡単なことばに戻らなくちゃいけないのですが、それを実現するにはそうできるような環境が必要です。

 ……と、なにか楽しみ、うれしみという。このあたりはなんか踊りだしちゃったりするような、全肯定な感じの富野さんという感じがする。感じがするが、そういう環境が必要だともいう。この世界はそういう環境があるのか。富野アニメのなかに用意されているのか。最初から用意されていたら、ドラマは生まれないか。その必要のために人が生き死にして、なおかつ元気の方へ行くのか。
 あるいは。

 単純な話で、ぼくは動物と何か機械的なものが共合するということは生理的に許せないのです。
――たとえば『エヴァンゲリオン』に対して富野さんは批判的でしたが、そういう生理的なところが理由だったのでしょうか。
 もちろんです。そういうことを混在させて気がすんでいるというのは尋常じゃないと思います。病院に入れ、と、それだけのことです。

 関係ないが、おれはこの日『生物化するコンピュータ』という本を探したりもしていたのだが(なかったんだけど)、だめなのか。あくまで道具としてのメカ、モビルスーツガンダムサイバーパンクにはいかない。なるほど、そうい言われてみればそうか。座席にトイレを作っちゃったりするけれど、それなんかもたしかに道具なわけか。自分という肉体の、あくまで外側……。ところで、あの排泄物はリサイクルされるのだろか?
 あるいは、モトラッド艦隊について。

 そこにはたしかに屈折した事情はありました。それ以外にもう一つ、ガンダムも含めてリアルアニメとかリアルメカとか言われて始めたものについて、ぼく自身はリアルだなんて何も思ってませんでしたから、リアルだと言ってるファンに対して「おめえらもういいかげん気づけよ。アニメっってこれができるんだよ」という直球を投げたいという気持ちもありました。

 フハッ、そういう直球だったのか。おれがはじめて『Vガン』観てたとき、バイク艦隊どう思ってたかな。なにか奇妙な印象を持ったような気はしたけれどな。『レコンギスタ』でも、だれも想像もできないような「これができるんだよ」が観られるのだろうか。トイレとか? でも、あれはあれでリアルなような……変化球か?
 あるいは、アメリカについて。

 そうして見ると、ヨーロッパやアジアなんかに旧来からある国家に比べると、ユナイテッド・ステイツというのは国家ではなく、間違いなく新しいフィールドだなということを感じたんです。土地に根付いた民衆が歴史的にトラウマを持っているかいないかの違いは大きいです。ようするに、新興国家ということは字義どおりに受け取らなきゃいけないのに、なんで日本人はうかつにもアメリカ合衆国を、イギリスやフランスなんかと同じような「国」ととらえてしまったのか、そこにいろいろな間違いの始まりがあるような気がしています。

 今後出てくるか「アメリア」というものにそういう面はあるのかどうか。そして土地に対する黒歴史のようなもの(アメリカが先住民を殺して成り立った、とか)。今回『レコンギスタ』の舞台になった土地も、「クンタラ」という被差別民への歴史と、今なお続く差別が描かれているようだが、そのあたりはどう語られるのか。
 そして、ふたたび旧来とは違う戦争について。

 この対談を採取したのは昨年末のことで、アメリカがテロ集団にたいして仕掛けた戦争は、いまだ新しい進展を見せないままに継続している。
 テロ集団と書いたが、その集団がどこにいるのか、どのような規模のものであるのか、誰もわかっていないのは諸氏もご存知のとおりで、これひとつとっても旧来の概念である『敵』は存在していない。
 ということは、戦争状態といいながらも、どこが戦場で、誰が敵だかわからないのであるから、ガンダム世界をなぞれば、ギレンはいないし、ジオン公国のあるサイド3というスペースコロニーもなく、まして、ア・バオア・クーのような要塞もないのだから、どこに最終攻撃をかけていいのかもわからないのだ。

 これもよく言われることだが、でも一方でウサマ・ビンラディンという敵は殺されたわけだ。さてイスラーム国は? あるいは『レコンギスタ』も「誰が敵だかわからない」状況になっていくのだろうか。
 最後に、ちょっとおもしろい逆説。

 システムというのは、これそのものがいつしか独自の意思をもつもので、システムはシステムの存続しか意思しない特性があるということを絶対に忘れてはならない。人々のために、という意思をもって作動することは絶対にないのだ。が、それでも嬉しいことは、エンロンのトップや政治家、官僚、企業家のなかに、そのシステムをバリアにして私財をたくわえる輩がいるということで、それが人間でもある。

 システムのあたりは、なにやら多田富雄のスーパーシステムなんかを思い浮かべるが、それはいい。なにより、「それでも嬉しいことは」というのが面白いじゃないの。システムの自己存続の意思とは別個に動く人間というものの肯定。私利私欲すら肯定してしまうこと。土台のところにその肯定があってこそ、世界があるっつーのか。うーん、いいな、そこんところいいわ。で、そういう土台YSがあってこその富野ワールドがあって、割り切れぬ人間の業があんだろうな。違うかな、わかんねえな。まあいい、そんなことを考えたり、考えなかったりしながら、とりあえず『レコンギスタ』、見る!