このあいだ、エドワード・ホッパーの解説書をプレゼントいただいた。
ああ、ホッパーいいよな。狂おしいほどホッパーいいよ、ビューだよ、となったわけである。そこで、図書館で検索をかけてみたら、割と新しい本が見つかった。青木保という人のことはよく知らない。
文化人類学者にして、前の国立新美術館の館長らしい。とはいえ、自分は美術の専門家ではないからといって、話をすすめる。ともかくホッパーが好きなんよ、という感じである。ホッパーについて書かれたエルンスト・ファレスという詩人やマーク・ストランドという人のホッパー論をひきながら、「いや、おれはそう思わねえんだ」みたいな、そんな話をしつづける。
なんだろうか、おれはおれで、別にホッパーが好きだけれど、実際に見た作品は少ない。少ないけれど、この青木御大もそんなに見ていないようなので、いいとする。一番好きな作品も違うし、バルセローナの詩人とも違う感じがするが、いずれにせよ、ホッパー好きなのだ。
そうだ、ホッパーには語りうるなにかがある。なにかこう、アメリカの一時代というにはおさまらない何かがある。おれはそう思うし、ホッパー好きもそんなふうに思っているのだろう。なにか地球外知的生命体が来ても、ホッパーは地球代表の一つとして、「わしらはこんなんですが」と出せるような気がしている。
それにしても、ホッパーはいいな。複製画を飾っている青木先生、いいな。それいいよ、ということだ。おれもホッパーの《ナイトホークス》か《サンデー》でもどっかで手に入れて、汚い部屋の壁に貼ろうかな。そんなことを思った。以上。