幻の名競馬エッセイスト

goldhead2004-09-22

 『競馬にたら、ればはない』とはよく言われる言葉だが、実際に競馬は数限りない「たら、れば」によって成り立っている事への反語だろう。寺山修司ではないけれど、「実際に起こらなかったことも歴史の内である」というやつだ*1
 そんなわけで、競馬には‘幻の三冠馬’なんかがたくさんいるのだけど、自分は一人‘幻の名競馬エッセイスト’の名を挙げたいと思う。澁澤龍彦だ。澁澤の名は、サドの翻訳者として広く知られているけれど、その博識とスタイルに裏打ちされたエッセイも超一級品だ。では、澁澤はなぜ‘幻’なのだろうか。
 自分の知る限り、澁澤が競馬をメーン・テーマとした随筆は一つしかない。「群衆の中の孤独」だ。少年時代物に分類されるもので、内容は父に手を引かれて訪れた競馬場で一人はぐれ、競馬場という非日常的な空間で感じた「群衆の中の孤独」についてだ。そして、それ以来競馬とは縁遠くなったと書かれていたようにも思う。
 もし、そこで競馬と別の接し方をしたらどうなったろうか、そう思わずにはいられないのだ。その言語力や博覧強記とも言える知識の広さから、未だ知らない世界の競馬やその歴史について書いてくれたのではないかと。寝藁や土埃からもっとも遠い、形而上の競馬の世界を。
 これだけでは‘幻’というのに根拠が弱いかも知れない。それを補強するために二つの例を。一つは、『草競馬流浪記』の著者でもある山口瞳が編集したアンソロジー、『競馬読本』*2にこのエッセイが収められていることだ。競馬について名の知れた作家たちが並ぶ中、この一編だけが浮いている。しかし、それでもこの作品を選んだのは、山口の「たら、れば」じゃないかと(勝手に)思うのだ。
 そして、もう一つ。澁澤龍彦は明治の大実業家である渋沢栄一の遠縁にあたることは有名だが、‘競馬の神様’と呼ばれた大川慶次郎渋沢栄一のひ孫なのだ。血縁にそんな立派なブラックタイプがいるのだから、まさに‘血統的な裏付けも文句なし’ではなかろうか。
 
 最近よく目にする競馬エッセイストの名が、安西美穂子ばかりではちと悲しいので、ちょっと長くなってしまった。