三つの極生

 今朝、僕の部屋のテーブルには、三つの空き缶が置いてあった。キリンの発泡酒「極生」である。もう過去のものになったのか、スーパーで投げ売りされていたのだ。そして、僕は極生の缶のデザインが好きであった。たしか、この商品にテレビコマーシャルはなかった。ただ、このデザインだよりの宣伝戦略だった。そのあたりも、ちょっと好きな理由だ。僕は同じ銘柄を続けて避けるくせがある。だから、三つ極生が並ぶのは珍しいことなのだ。
 極生のデザインを手掛けたのは、佐藤可士和というデザイナーだ。いや、極生の宣伝全体を監督した、クリエイティブディレクターだ、というのが正確なところか。それはそうと、その佐藤さんがテレビの深夜番組に出ていたのを見たことがある。そこで、こんなことを言っていた。すなわち「デザインとは何かの問題を解決するための手段なのです」と。僕は目から鱗が落ちる思いがした。この僕の身の回りにあるありとあらゆるデザインが、すべて問題の解決のために出された答えなのだ。その答えが正答であるかどうかは別だ。しかし、なるほど、答えであった。
 あらゆるデザインから、話をグラフィックデザインに絞ろう。そして、芸術から絵画を持ってきて並べてみる。絵画は何かの問題に対する答えとしての手段なのか。これは半分合っていて半分違うように思う。芸術はおそらく、問題であり答えなのだ。それ自身が手段であり目的なのだ。僕はそんな風に、漠然と大雑把に考える。
 しかし、世の中そんな風にぱっきりと分かれるものではない。たとえば、政治目的で描かれた絵に芸術性を見出せる場合もあれば、作者にとっての芸術が、本人のあずかり知らぬところで政治的シンボルになることだってあろう。そして、時に、そのあたりの境界が一番面白いのではないか、とも思う。
 話は大きく変わる。『言語にとって美とはなにか』。言わずと知れた吉本隆明の著書である。僕の家には吉本隆明の本が全て揃っていた。もちろん、僕でなく父が揃えたものだ。吉本隆明の本が占める本棚の、一番高いところにその本はあったのだ。そして、たまに今メモしてるような事を考えると、ふとその書名が頭に浮かぶ。
 言葉も当然、宣伝広告の要だ。グラフィックデザインと絵画を、コピーライティングと詩に置き換えてもいいのだろうか。もっとも、こんな比較は僕が勝手にやってることだから、前提からして意味があるのかどうかさっぱりわからない。まあ、いいや。そして、言葉は誰かに何かを伝えるための手段だが、それ自体が問いであり、答えであるのが詩なのだろうか。おお、そういえば田村隆一にこんな詩があった。「西武園所感」http://www.kcn.ne.jp/~tkia/trp/032.htmlだ。
 そして、『言語美』にも何か僕の考えるようなことについて書いてあるのだろうか。僕は吉本隆明の本を一冊もよんだことがないのだから、ちょっと想像がつかない。このメモを書くにちょっと検索をしてみたけれど、検索結果画面だけで意味がわからない。僕は概念的な言葉が苦手だ。要するに、難しい本が読めないのだ。このあたりをいつか克服したら、ちょっと挑戦してみようか。そのうち父が死んで、あの本の山が僕の物になったときまでの宿題としよう。
 さて、こんなことを朝から考えていたせいでもないが、僕の部屋のテーブルには三つの極生の空き缶が置かれたままだった。今日、木曜日は空き缶・空き瓶・ペットボトルの日だというのに。