映画『刑務所の中』/監督:崔洋一

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 知ってる者同士がそっとネタを出し合って、思わずにやりとしてしまうような作品というやつがある。この原作の『刑務所の中』(花輪和一ASIN:4883790657)も、まさにそんな作品の典型だろう。真にマニアックなのではなく、雰囲気のマニアックらしさ。果たして、この味わいが映画になってどうなるのか。期待半分、裏切られる予感半分で見た。結果から言えば、この映画、ビューだよ、ビュー。そうとしか言えないのであった。
 DVDの映像特典に監督のインタビューがあった。ハナから従来の刑務所物の映画みたいにするつもりはなかった。しかし、一応は原作のエピソードから、映画らしいストーリーを書いてみたのだという。しかし、それを破り捨てた。それが英断、英断、大英断。いくらディティールを再現したところで、そこに余計なストーリー性を持ち込んだらお終い。こうでしか描けない世界。俺はそう思わずにはいられないのであった。
 それにしても山崎努。さすがに『天国と地獄』(黒澤明ASIN:B00007M8M5)のラストシーンの続きに見えそう、とは言わない。しかし、冒頭のシーンで多少心配になった。ガンマニアが河川敷でサバゲーをするのだが、その山崎努の姿は、本当のテロリストか何かにしか見えなかった。それが、刑務所に入ってみたら、やはりその存在感の重さは拭えきれないところもあるのだが、ナレーションの具合と相まって、最後には「山崎努でしかありえない」とすら思うのであった。
 もちろん、他の出演者も素晴らしかった。同房の個性的でいて、やはり囚人として均質化された面々はもちろんよかったが、作業所の刑務官と、その「先生」に媚を売る「心にグラインダーかけてる」囚人。この二人は本当にいい。刑務官のシャープな指さしを、思わず今日も真似してしまう俺であった。
 出演者といえば、やや唐突に窪塚洋介が出てきた。ほぼ独白シーンで他の面々とは絡みがない。これはその、窪塚らしい殺人者らしさは出ていたが、「別の刑務所の中」という風でもあって、多少浮いていたようにも思う。また、椎名桔平も唐突に出てきた。こちらは医務官役だったが、こちらはコメディの一歩手前に踏みとどまって、絶妙なバランスを保っていたのであった。
 しかしまた、人間以外の主役についても触れておかなければならない。刑務所のセットそのものだ。手元にあった原作と比べても、どこにケチをつけようか。独房のトイレの和洋と配置の左右が逆だったというくらいだ。そして、その細部を支える箱の存在も見逃せない。「博物館 網走監獄」(http://www.ryuhyo.com/kangoku/)の施設を使ったというが、細部ディティールに加えて、この箱がなければならなかった。そうに違いないと思うのであった。
 ディティールといえば、ほとんど原作(あるいは刑務所生活)のメーンテーマといっていい、食事を忘れちゃいけない。これでもかというくらい出てくる正月メニューの羅列など最高だ。それに、ちゃんとアルフォートも出てきた。どんなCMを作っても、見た者をしてアルフォートを食いたくさせる効果において、『刑務所の中』を上回るものはないだろう。俺もまたアルフォートとコーラ、そして刑務所の中の食事に涎を垂らしたのであった。
 残念なところが無いわけではなかった。楽しみにしていた二つのシーンが無かった。一つは、花輪さんが出所後のシャバの喫茶店で「願いまーす!」をやってしまうのではないかと妄想するシーン。外の世界を画の中に持ち込みたくなかったということかもしれない。ああ、そうだ、音響効果によって「願いまーす!」の柱を表現したのは見事だったけれど。もう一つは隠し持っていた小豆マーガリンつきパンをこっそり食う囚人の姿。パンの日は一つの章を与えられているくらいの扱いだったが、このワンカットは見たかった。もちろん、食堂で本当に上手そうに食う囚人たちの姿には、役者という存在の力を思い知らされるのであった。
 ああ、それにしても刑務所、刑務所。原作者の花輪氏が「あんなところは二度とごめん」と言ったのは承知の上で、なぜこんなにも惹かれるのだろう。俺は、この原作に出会う前から刑務所に惹かれるところがあった。それももちろん、自由の上にあぐらをかいた歪んだ願望には違いない。実際の刑務所の中には陰湿で嫌になるような部分だってたくさんあるだろう。それでも、それでもなお、俺は刑務所に惹かれる。
 刑務所と学校は似ている。似ているというか、同じ源から生まれたものだったはずだ(『身体の零度―何が近代を成立させたか』三浦雅士ASIN:4062580314)。ちょっと思い出してみると、俺は学校において、学校に従わされる部分よりも、学校の中での自由が苦手だった。昼休みや放課後、そして「好きな人同士でグループを作ってください」。俺は極端に酷い孤立やいじめには遭わなかったが、それらに上手く合わせるのに酷く苦労した。身動き取れない授業中の方がずっと楽だった。俺はノートの隅の落書き、勝手に読む年表や資料集の中で自由だった。いや、そんなものも必要なく、頭の中で自由なのであった。
 それに俺は単純作業が大好きだ。俺が今まで体験した、何千というパンフレットを折る作業や、誤植部分にシールを貼る作業。どれもこれも俺を夢中にさせた。だんだんとコツを発見し、その単純さをさらに単純に効率化していき、後は没頭するのみ。これだけをしていたい、これで食っていけないのか。まさに花輪さんの独房の中の薬袋作りそのものだ。俺は頭と自意識を使う仕事が苦手なのであった。
 俺は自分の思想的立ち位置というのはよくわからない。しかし、何に重きを置きたいかといえば、自由だ。リベラリストリベルタンと呼ばれても悪い気はしない。その一方で、監獄に恋い焦がれる。独房の寸法を測らせろと刑務所に押し掛けた奥崎謙三じゃないが、俺は俺の生活の看守となって俺は俺の部屋を独房にする。それができるならば、俺は俺の人生がもうちょっと生きやすくなるような気さえしてくる。残念ながら、俺は俺の看守性に期待できないが。ああ、しかし、それが実現したのならば、デ・ゼッサントの小宇宙、ベックフォードの高い塔。狂王ルードヴィヒの城に、サドのバスティーユ牢獄
 ……しかし、それでいて俺はやはりどうにも女と競馬とワイドショーが好きでかなわない。憧れの監獄はポケットに入れて、六塵の海にたゆたうかぎりたゆたってみるしかないのであった。

※追記:この映画には副題のように「doing time」という文言が添えられていた。調べてみると、「刑を勤める、服役する」という意味になるらしい。なかなか皮肉で素敵な言いまわしじゃないか。