文章監獄でつかまえて

 高校一年生のレポートを見てくれと頼まれた。リライトくらいの気持ちでいたが、ついつい興に乗って途中から脱線し、壮大な生命の誕生と知についての雰囲気を醸し出す、ペダンチックな雰囲気だけの文章にしてみた。ここのところ曼陀羅づいてるからな、俺は。で、それはそれでウケたのだが、宿題としてはあえなく却下された。それでは悪いと、要点(真面目な)だけをご本人の文章のパスティーシュでやってみたら、これもウケてオーケーになった。
 やれやれ、俺は自分の文章がない。最初のは松岡正剛らしさで書いて、後のはある高校生らしさで書いた。俺の文章はいつも借り物だ。携帯メールは若者風で、企画書はビジネス風。もちろん、使い分けは必要だ。しかし、こうして書いている「自の文」は不定形極まりなく、あってないようなもの。ここらあたり、一つ自分の文章を監獄の中に入れて、ちょっと指先が曲がってたら「ぶったるんでんじゃねえのか!!」とブッ叩いちまうような、そんな風なしつけをしてみたくもなる。しかし、こうして日記を書いていて、一日の間に一人称が固定されることの方が稀な俺。本当の牢屋に入るより難しい。せいぜい借り物をつなぎ合わせて、誤字誤用だけには気をつけていこう。最後にはっきり言っておくが、やれやれは村上春樹であり、ここらあたりは近藤唯之、はっきり言っておくがは新約聖書(新共同訳)からの借り物だ。