さて、帰るか。

 零時を回ったが、今日の夜はえらく集中できた。午前中死んだふりをしていたのが奏功したか。だいたい俺ははじめ「小人の靴屋」として仕事を手伝っていたのだ。ほぼニートの時、そういう形でコミットしていたのだ。しかし、今じゃ昼も夜も出ずっぱりで、有り難みも少ない。
 語尾の統一。「です・ます」、「だ・である」、「であります」……。文章の基本中の基本だ。この基本を満たしていない文章にたまに出くわす。だが、どうだろう、妙に味のあるやつがある。たいていはそれなりにお歳を召した方に多い。若い人の方がデジタル的に統一している。で、それが仕事なら容赦なく語尾統一せざるを得ないが、例えばそれがネット上に出てきてたりすると、なにかこう、妙にあたたかい感じすらする。これはよくわからない。わからないので、たまに真似してみる(一つ上のは我ながら出来が悪い)。なるほど、読む人には読みにくいだけかもしれないが、書く方は変な調子が出てくる。レトリックとして、あえて混入させるのとは別の、何かおかしな感じ。たとえば、ネカマ風に書いてみるときの調子に近い。しかしそれはなんだ、あたたかさからは遠い、下卑た自己韜晦の手段にすぎないかもしれないな?
 しかし、何か書くというのは所詮それなのかもしれない。誰かに読ませるつもりのものであれ、俺しか読まない俺の日記であれ、書けば書くほど俺の書いたものは俺から遠ざかる。かといって、残された俺に「本当の自分」みたいなものが残るわけでもなく。俺が俺の自己韜晦の外側だけだとしたら、その時々の文化(分化)した俺のかけらは俺をオミットするばかりなので、畢竟、俺は俺を文化させる方法が俺なのだと言えるのかもしれない。
 自分探しなどというが、自分など探し出してしまったらえらくグロテスクなものに違いないように思える。あるいは、それは静的に完了したデザイン。墓碑とデスマスクなら落ち着いて見られるかもしれない。
 正直なところ寒くて帰るのも億劫だ。億劫です。