『義経』の感想

 ふとチャンネルを変えると、滝沢秀明が金粉まみれで飛び跳ねていたので驚いた。新手のミノフスキー・ドライブ*1かもしれない。あるいは八艘飛びで加速し、通常の三倍のスピードで接近するに違いない。おそらく違う。
 しかし、ずっと見ていなかった『義経』とはいえ、壇ノ浦決戦となれば見るしかない。とは言えもう後半。阿部寛の演じる平知盛(盛りすぎで誰が誰だかわからないのも、見なくなった原因だと思う)の最期など、見るべきところは多かった。そして、「海の底にも都が」で入水入水。ナレーターも言っていたが、まさに「あはれ」。
 ところで最近知って驚いたのだが、「あはれ」と「あっぱれ」は同じ言葉であったという。貴族社会でよしとされていた「あはれ」の価値観が、武家社会になるとともに「あっぱれ」になったというのだ。「天晴れ」なんてのは後付けの漢字だろう。
 となると、阿部寛の死に様は「あっぱれ」であり、女房たちの入水は「あはれ」。まさにこの時代こそ、物事の価値観の境目であり、日本文化における一つの「あっぱれ」の誕生が義経であるとも言える。しかし、一方で義経は「あはれ」の存在でもあり、そこが今なお高い人気を有するところなのかもしれない。
 そんな視点で『義経』をこれから見ようかと思うと微妙なところ。入水シーンを見て、単に着衣で水に落とされたというだけでお笑い芸人の罰ゲームを思い出してしまう哀れな俺には、あまり向いていないのかも知れない。溺れしダチョウ倶楽部ひきあげよー!

*1:追記:F91の残像のつもりで書いたが、後からキーワードを見たら勘違いであった。WikipediaによるとF91のは金属剥離効果<Metal Peel-off effect 略称MEPE>とか言うらしい。俺はガンダムを見直した方がいいのかもしれない。