『夢の通ひ路』倉橋由美子

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 桂子さんは水族館で珍しい海の動物を観察するやうな気分で、ゆらめく青い光の中のいつ終はるともない交はりを眺めてゐた。抱擁する腕もない魚の胸や頭を不器用に擦り合はせるやうにしながら、腰から下は人間のものにふさはしく巧緻で優美で、しかもこれ以上はないほど猥褻な動きを続けてゐる。それは果てしない悦びを貪つてゐるといふよりも、さうやつて下半身を結び合はせることで、次第に進行してくる魚への変身に抗してゐるかのやうだつた。さう思ふとひどく物哀しい見物でもある。

 「男の人の頭の中つて、九分九厘あれのことばかりなんでせう」と女の子に言はれたことがあつた。小学校を終へたあとの春休みのことだつた。あまり親しくもない、塾でいくらか顔を見知つただけの子で、俺と友人は「君のはうこそ幾分頭がおかしくなつてゐるんぢゃないのかい?」などと言つて逃れたのではなかつたかな。今思へば、あれが女の頭の中を考へ始めたきつかけだつたかもしれない。
 兔も角、あの子の言つたことは正しい。さうだよ、俺は物心ついたときから、頭の中は女の裸ことでいつぱいだ。これは掛け値なしに本当のことなんだぜ。そして、今このときだつて、あれのことばかりなのだからしやうがない。さう思ふとひどく物哀しい動物のやうな気にすらなつてくるね。で、女の頭の中だ。正確には、女の頭の中のあれのことだらうな。
 勿論、そんなこと考えたつてわかることわけはないよ。hereとthereはあまりに異なつてゐるからね。けれど、そのために交換、交感、そして交歓がある……(と、ここまで書いてインチキ旧かなづかいが面倒になったので、急にやめる)。
 そうだ、『境界の発生』(id:goldhead:20051015#p1)だ。すなわち、

 初源の市は、里人/山人の交通の時空(にわ)、言葉をかえれば、里/山という異質な共同体が相接し、交歓=交換をはたすマージナルな地点にたてられる。

ということだ。そういえば、この『境界の発生』によれば、「境」という言葉の由来は「坂」であって、死者の世界との境は黄泉平坂だ。お、倉橋由美子には『よもつひらさか往還』(ASIN:4062750198)なるズバリの作品があるな。桂子さんも出てくるようだし、なるほどの、このマージナルにおける交歓が一つの主題なのやもしれぬ。
 何の話だったか。女のセックスの話だったか。言うまでもないが、男と女では求めるものが違う。もちろん個人個人で千差万別だが、ざっくり違うものがあるはずだ。たとえば『夢の通ひ路』などを読むと、そのあたりでぞっとする。ついでに、下半身にじんわり重いものを感じる。そして思う、ハードル高いよ、と(まあ、この本に出てくるのは歴史上のいい男だけれどな、西脇順三郎とか)。あるいは、ここらあたりがどうなのか、俺などはただちにこれを女に貸して、感想を求めるつもりになる。これは俺のガキ臭さにほかならないが、可愛い茶目と取ってくれと思わずにおれない。俺には女の鬼女のところも、女の性にもそこしれぬ怖さを抱くが、それがなかったらどれだけつまらないかわからない。そう思いながら、田村隆一みたいに「女性の恨みってのは恐ろしいほど執念深いからね。毎日、君を困らせる策を練っているのさ。あーコワイ」とかうそぶいていたい。