北枕のコスモロジー

 俺は前の冬にすきま風に悩んだ(id:goldhead:20050201#p1)りして、新聞紙を貼りつけるという高級な対応をしてみたり(id:goldhead:20050203#p4)もしたわけだ。しかし俺はこの冬になって思い切って頭の方向を変えてみたのだ。頭の向こうに窓があってそこから風が吹いてくる。それがよくない。冷える上に乾く。乾くのは風邪のもとである。
 なぜ俺は前の冬でこの方法を採らなかったのか。それは、ベッドのヘッドの方向が問題によるものだった。ヘッドが窓側にある。ゆえに、頭を窓に向ける、というわけだ。ヘッドのお陰でメガネなどを入れておく小物入れも置けるし、ペットボトルや読書用のスタンドに、読みさしの本も置ける。逆だとそうはいかない。それがネックだった。いまさら馬鹿でかいシステムベッド自体の方向を変えるのは論外だ。
 ではなぜヘッドが窓を向いているのか。それは、「朝日を浴びる目覚め」が想定されたことだろう。朝日が顔にあたって目が覚める、というステロタイプのイメージ写真。それゆえに、はじめベッドを組み立てるときに、何の考えもなく窓側にヘッドを置いた。しかし、これは大間違いのこんこんちきであった。日の出とともに起き、日の入りとともに寝るのは前近代の人のすることである。現代の人である私に、四季を通じて日の出が早すぎる。そのせいで、いちいちブラインドをあげたりおろしたりしなくてはならない。これもまた、枕方向を変える動機にはなった。
 さて、枕を変えて数日、読書こそ出来ぬが、メガネの置き場などもいろいろと対処して、それなりに慣れてきた。しかし、ふと思ったのだ、「これは北枕か?」と。考えてみると、俺はこの部屋の東西南北をまったく把握していないことに気がついた。そこで、小さなコンパスを持ち出してみた。すると、窓の方向は南西、新しい枕の方向は北東であった。
 しかしなんだろう、これがわかったところで実感がない。実感のある東西南北とは? そうだ、俺は、東西南北にある確固たる意識があるのだ。それにあらためて気づかされたのは、この間のテレビ番組「テスト・ザ・ネイション」(id:goldhead:20051128#p1)であった。その中に、東西南北を認識できるかどうかというテストがあったのだ。歩行者の視点になり、例えば北を向いているところからスタートして、角をいくつも曲がったりして、さて今どちらを向いているでしょう? というもの。俺はこのテストが簡単でしかたなかった。
 このテストの画面は、まったく同じ構成が続く無機質なポリゴン都市風景である。何の目印もないこれは目印にならない。しかし、俺はこのグリッド四方に具体的なトポスを当てはめた。その対応は以下のとおりだ(地図http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.18.50.432&el=139.29.57.865&la=1&fi=1&skey=%ca%d2%c0%a5%bb%b3&sc=4と比べるとかなり不正確だが、それはどうでもいい。これはトポフィリアにまつわる何かだろうか?)。

  • 南→海。部屋の窓の正面にあった湘南の海、江ノ島のちょい左あたり。
  • 北→手広の交差点。寒い灰色のイメージ。
  • 西→崖。崖の上から初日の出を見る。その先の龍口寺に至る道。
  • 東→湘南モノレールを辿って大船に至る方向。大船観音の方。

 まず、窓の正面方向にあった南がイメージしやすい。南に海、これが一番の基点だ。そして、逆に寒さを感じさせる北は、なぜか手広の交差点。そして、西の崖の上から東の日の出を眺めたイメージ。これが俺の四方の全て、狭い意味での世界観、宇宙観だ。これを無機質なポリゴンにでも何にでも当てはめてしまえば、己の方向を見失うことはない。常に海の方向が意識されると、あとは自動的に決まる。
 とはいえ、俺は方向音痴を自認しているし、他人からもそう思われているふしがある。これはどうにも不思議な話だ。思うに、多くの都市は京都のように設計されていないからではないのか。すなわち、東西南北に依るところが少ない。だから俺は道に迷う。しかし、地図があればなんとかなる。あるいは、記憶力がないだけか?
 というわけで、今や俺は東西南北を失って、海も南以外の方向にあるらしい。こうなったら横浜市民として、ランドマークタワーを文字通りのランドマークに意識しようか。あの馬鹿でかい目印が、東照宮北極星を背景にいただくように、何か呪術的な意味があるのかどうか知りたいところだ。