『カウント・ゼロ』ウィリアム・ギブスン

ASIN:4150107351

 ターナーはニュー・デリーで爆猟犬を仕掛けられた。こちらのフェロモンと髪の色に標的を定めているやつだ。そいつは、チャンドニ・チョウクとかいう通りで追いついてきて、林なす茶色の脚と輪タクのタイアとを縫い、ターナーのレンタルBMWめがけて突進してきた。そいつの核は一キログラム分の再結晶ヘクソーゲンと薄片TNT
(引用者注……「爆猟犬」に「スラムハウンド」、「輪タク」に「ペディキャブ」のルビ)

 俺は一度読み終わった作品やその作者に対してかなり冷淡なところがあって(id:goldhead:20060113#p2)、どんなに読中に大きな印象を受けても、その後は冷めるがままにしてしまう。で、その冷めたものに適当なラベルを貼って、頭の中のどこかの倉庫に放り込む。その適当なラベルというのが本当に適当なもので、『ニューロマンサー』(id:goldhead:20050714#p2)に貼り付けられたそれは「サイバーパンクのはじまり」で、ウィリアム・ギブスンに貼り付けられたそれは「サイバーパンクの人」というだけ。読んでも読まなくても一緒じゃないかという代物だ。しかし、何かのきっかけであらためてページを開けば、一気にぱちぱちと音を立てて蘇ってくる。ウィリアム・ギブスンの世界。ハードボイルドでセンチメンタル、ネオンと電気信号の輝く世界。
 というわけで、『ニューロマンサー』の続編にあたる『カウント・ゼロ』。これ、面白くて、のめり込んで、一気に読んでしまった。まあ、続編というより同じ舞台の後年、というところ。登場人物も、中心人物がメーンで再登場するわけじゃない。しかい、ところどころに顔を出す脇役や、あるいは、全編を包み込む何ものかは紛れもなく『ニューロマンサー』の続編だ。
 ストーリーは複数人の視点から進む。この技法、先に『ヴァーチャル・ライト』(id:goldhead:20050727#p1)と『あいどる』(id:goldhead:20050728#p1)で読んでいる。とういわけで、特に驚きもしなかったが、やはりこれはあまり好きとは言えないのも確か。SFが読み手を引き込む「迷い込み」感みたいなものが薄い。とはいえ、別の視点から見たら他の視点の答えが単純に出ているような代物では決してなく、これも幕の内弁当的でオーケーだわな。
 小説にはたまに作中芸術作品が出てくる。幻の名画でもなんでもいいけれど、小説の中、言葉でしか記されないオブジェ。この小説にもキーとなる箱のオブジェが出てくるが、これが滅法すてきな代物なのだ。言葉でしかないけれど。さらに、その箱を作るシーンも出てきて、これも壮大で優雅で悲しい。このあたりがギブスン調という感じがする。
 登場人物については……、そうだな『ニューロマンサー』のモリイのようなすごい個性は感じられないか。『ヴァーチャル・ライト』のウォーベイビーを思い浮かべるような、ヴードゥー黒人たちなんかは印象的だったかな。けれど、どちらかというと生活感をちらほら感じさせるような描写など多く、そのけれんの無さもまた味か。
 けれんの無さといえば、強烈なルビ攻勢はなりを潜めていた印象。翻訳は黒丸尚で『ニューロマンサー』と一緒だけれど。とはいえ、今回は電脳空間率が低く、アクション映画的アクションシーンなんかもいっぱいあったからか。
 えーと、というわけで、『ニューロマンサー』には及ばないが、続編としては大満足の一作だった。続いて三作目『モナリザ・オーヴァドライブ』も手に入れているので、こちらにも熱気を引きずったまま取りかかりたいと思う次第。